OSA日記

旅と食と健康とメンタルと

悪いことは一瞬

仕事の帰り、自転車に乗っていると雨が降ってきた。

 

横着して自転車に乗ったまま、前カゴに入れていたカバンから傘を出そうとして、気を取られていてハンドルに膝をしたたかに強打してしまった。

 

どこをどうやったらハンドルで膝を打つのかわからないが、しばらくペダルが漕げないくらいの痛みだった。惰性で走っているうちに漕げるくらいには回復したので、何とか駅までたどり着くことはできた。ただ、痛みはその後2〜3日続き、ひどい目にあった。

 

それからあまり日を置かず、自宅で空気清浄機に足の小指をぶつけ、痛くてうずくまるくらいになり、また別の日には座っていて椅子を前に進めた時に、かかとがキャスターに巻き込まれて、皮がめくれて血が出てきて大いに痛かった。いずれも実に些細なことだが、なかなか治らず地味に痛みが続く。

 

こんなことになるとは、その直前まで想像もしないものだ。いきなり訪れる不幸に、何も痛くなく過ごせたほんの少し前がとてもありがたく思えるようになる。悪いことは一瞬で起こるものだとつくづく思う。

 

しばらく痛いくらいならこの程度の感想で済むが、中にはこれで足の指を骨折した人もいる。突き詰めると、車に跳ねられたり心筋梗塞で倒れたりと、上(?)を見るときりがないが、とにかく不幸なことは我が身のすぐ隣に控えているような気がする。

 

半面、良いことはあまりこういうことは無いような気がする。突然大金が入ったり、急に健康になったりするなどということはほぼない。良いことはコツコツと積み上げていって、それでいて劇的に良くならず、よくて現状維持程度になることが多い。必ず良くなるとも限らない。何か不公平だと思う。

 

逆に考えると、悪いことが無いことが素晴らしいことかなと思ったりする。身体がどこも痛くないことがどれほどありがたく幸せなことか、どこかが悪くなって初めて気づく。

 

空気のありがたさは、空気がなくなって気づくが、その時にはすでに手遅れ。

 

まあ、だからといって常に危険を予想して身構えているわけにもいかない。最終的にはなるようになるしかないので、そうなってしまったら諦める他ないのだが、どこか心に留めておいても損はないかもしれない。

 

トラブルなく1日が終わったら感謝するべきだろう。「ありがとう」という感謝の言葉は、有り難い、つまり「有ることが難しい」ということ。反対の言葉は「当たり前」になり、何事もなかった1日というのは当たり前ではないのだ。何事も有り難いと思わなければいけないのかもしれない。

確率

我々は毎日ごく普通に生活しているが、とてつもなく低い確率の上に生まれ、育ち、生活している。

 

仏教などでも言われるが、縁というやつである。

自分が存在するためには両親がいて、その両親が存在するためにそれぞれの両親がいて、延々遡ると、自分一人が生まれるために何人必要なのか、ということになる。

生まれてきただけでもなかなかの確率だが、これまで死なずに生きてきたのもたいしたものだと思う。

 

しかし、そのような確率など足元にも及ばないのが、現在地球が存在していることのようだ。

 

地球ができて約46億年(よくそんなことが分かるものだと感心するが)。

これまで順風満帆にことが進んだわけではない。というよりむしろ苦難の連続だったらしい。

 

地球が出来て1億年くらいの時に、ジャイアンインパクトというのがあり、火星くらいの大きさの惑星(テイアというそうな)と衝突した。斜めにぶつかったので完全破壊にはならなかったようだが、もちろんめちゃくちゃに壊れて飛び散り、再集結したのが現在の地球だそうだ。

 

ぶつかったテイアの重い金属コアが原始地球に落下して、今でも外核の外側に張り付いている。そのおかげで地球内の金属部分がかなり増量し、大きな金属対流が生まれた。この対流は地球に磁場を作る。現在でも地球を守っている磁場の大きさは、金属が増量したことによるもの。で、この磁場は大切なバリアで、これがないと太陽からの太陽風や様々な粒子、放射線が直に降り注ぐことになり、生命は存在できない。

 

また、地球は地軸が傾いていて、普通ならゆらゆら揺れてしまい、とても安定した回転にはならない。テイアの衝突で飛び散った破片が原始地球の周りを回り(土星の環みたいなもの)、それがやがて合体したのが月だそうだが、この月が公転することで地球の回転が安定しているらしい。安定した回転のおかげで安定した環境が生まれ、四季などもできた。

 

そのころの地球は灼熱状態で、水などの揮発性物質は存在できなかった。そこへ木星が太陽に接近してきて、その影響で多数の小惑星群も影響され、地球や月に大量に降り注いだらしい。今なら一つ落ちただけでも大騒ぎだが、それが雨あられと降り注いだのだから大変な様相だっただろう。しかしその小惑星には水などの様々な揮発物質、生命の元となる物質があったそうで、それが降り注いだものだから原始の海や生命の源のアミノ酸などがもたらされた。おかげで生命が誕生したわけだ。

 

次に3億6千万年前、デボン紀後期に生物の大量絶滅があり、地球上の8割もの生物が死に絶えた。これは近くで超新星爆発があり、オゾン層が破壊されて紫外線や宇宙線が降り注いだのが原因らしい。多くの生命は死滅したが、比較的小型の生命が生き残り、頻繁に遺伝子が書き変わるおかげで進化が加速したらしい。この超新星は60光年くらいのちょうど良い位置にあったらしく、遠ければ影響はないし近ければ生命が全滅していただろう。

 

6600万年前、メキシコに直径10キロの小惑星が衝突し、この時にも大量絶滅が起こったが、ご存知のようにこその影響で恐竜が絶滅した。それまで生物界に君臨していた恐竜がいなくなったことで哺乳類が台頭し、今に至るというわけだ。

 

次々と起こったこれらの天変地異は、単にそれを切り抜けただけでなく、このインパクトがあったおかげで生命の存続や進化が促進されたということで、これだけの出来事の末に生命、ひいては人類が存在していることにただ驚嘆するばかりである。

 

これらの他にも様々な出来事があったと思うが、一つ言えるのは、この内どれ一つ欠けても自分は存在しなかったということだ。その確率は果てしなく小さい。

こういうことを知ると、何となく命を大事にしなければならないという気になってくる。

神様というのは本当にいるのかもしれない。

今に集中する

風呂にお湯を張って、さあ入ろうと蓋を取ると、湯船はからっぽ。栓を忘れたのだ。

何回これをやっただろう。

 

毎日やっているルーチンで身体が覚えていてもいいくらいなのに、こういうことがそんなに日をおかずに起こる。

 

いつも体組成計を腕につけているが、風呂に入るときだけ充電する。寝るときもつけているのだが、充電しているのを忘れるのだ。

朝起きて、ルーチンの散歩に行って、帰ってきて朝食を食べている時に、腕にいつものものがないのに気づく。よくまあここまで忘れられるものだ。

 

歳のせいというのもあるのだろうが、度を越している。認知症の始まりだろうかと心配になる。

 

最近なんとなく気づいたのは、どえらい忘れ方をするのは、なにか考え事をしているときが多いということ。我ながらいつもなにか考えていて(それも全くたいしたことではない)、いつの間にか時が過ぎていることが多々ある。

 

朝は決まった手順でストレッチをしているのだが、そんな時に考え事をしていると「あのストレッチはやっただろうか?」と思うこともある。

 

人間は同時に2つのことは絶対にできないそうだ(いわゆるマルチタスク)。同時にやっているように見えて、実は高速で切り替えているらしい。

で、自分の場合切り替えた瞬間忘れるらしい。

 

いろいろな教えで、昔のことも先のことも考えても仕方ない、今を大事に!というのがある。全くその通りで、自分はいつも先のことが心配になって仕方がないフシがあるので、今を大事に今を大事に、と心がけているつもりが、すぐに忘れてしまって不安が蘇ってくる。

これも何か別のことを考えた瞬間に、どこかに行ってしまうのかもしれない。

 

反省ばかりしてちっとも次に活かせることができないので、全く嫌になる。

 

四国遍路_高野山

5月12日

四国を打ち終えた1週間後、朝から高野山に向かった。

当初、四国を打ち終えたあとそのまま高野山へ向かうつもりをしていた。徳島からフェリーで和歌山に渡り1泊し、翌日鉄道で向かう予定で和歌山に宿もとっていた。予定をたてていた時は調子にのって、九度山から町石道を20キロ歩いて行く行程まで考えていたのである。前述した通り四国は四国で完結と考え直してこの予定は廃止し、高野山は別に行くことにしたのだった。

大阪から地下鉄に乗り継いで大阪の南の玄関口である難波へ。高野山へ行くには南海電鉄で行くが、「高野山世界遺産切符」というのが便利なので窓口で購入。行きを特急で行ける券にして一緒に特急「こうや」の指定席もとる。この切符は難波から高野山までの往復と、高野山内のバスが乗り放題、さらに土産物屋や寺院の入場料の割引券もついたものだ。トータルでも割安になる。

朝食がわりに立ち食いそばを食べてからホームに入る。特急こうや極楽橋行きは8時に出発。JRとの接続駅である橋本までは変哲もない大都市近郊路線だが、橋本からは単線となり険しい高野山へと分け行っていくため、急勾配・急カーブの連続となる。カーブが急なため極楽橋まで行く列車は通常のものより全長が短い。一つ前の車両が見えるくらいきついカーブが連続する。以前に乗った箱根登山鉄道を思い出したが、南海の面白いのはこの列車が大都会のターミナルから出た列車がそのまま走っていることだ。

高野山行き特急こうや

80分で終点極楽橋に到着。この駅は高野山に登るケーブルカーとの接続駅なので周りに何もなく、特急の乗客は全員ケーブルカーのホームへと進む。南海も鉄道とケーブルカーはひとまとめにしていて、基本的に「高野山行き」となっている。

極楽橋は標高500mを越えていてこの段階でかなり寒い。何でも高野山全体が岩盤の上にあるので、標高以上に冷えるのだとか。ケーブルカーは接続良く出発。ぐんぐん標高を上げていき、約5分で高野山駅に到着。標高は867m。さらに寒い。

極楽橋からのケーブルカー

当初せめて高野山駅からは歩こうかとも考えていたが、調べてみるとここから町まではバス専用道路で歩くことも禁止になっていたので、高野山切符にもバス乗り放題があることだしバスのお世話になる。バスは暖房が効いていて暖かい。暖房にほっとするなど冬の感覚である。バスはくねくね曲がる道を走っていく。

高野山の町を抜けて奥の院口で下車。ここから奥の院までは約2キロで、幽玄な杉木立の中を歩いていく。沿道には織田信長豊臣秀吉を始めとする戦国武将など有名人の墓が並び、その数20万基とも40万基とも言われている。比較的新しいのでは大岡越前井伊直弼などもあるが、古いのでは多田満仲(源氏の祖先)などもあり、石碑もかなり古い。高野山には何度も来ているので早足で歩いていく。中の橋を過ぎるとやがて奥の院が見えてくるが、2キロを約15分で歩き通した。時速は8キロとなり、空荷は本当に楽だ。

奥の院

御廟橋の手前で持参したロウソクと線香を灯し、橋を渡る。ここからは聖域で写真撮影も禁止。奥の院納札を納め裏に回る。奥の院裏には弘法大師御廟があり、ここは弘法大師が御入定されたところで、真言宗最大の聖地だろう。ちなみに弘法大師は現在も生きていて禅定を続けているとされ、奥の院の仕侍僧が毎日食事を給仕しているそうだ。全国に様々な伝説を持っている弘法大師ならではの逸話だろう。

弘法大師がここまでお見送りしてくれるという御廟橋に戻り、納経書で納経していただく。納経すると御姿を一緒にいただくのだが、ここ高野山では有料で白黒200円カラー300円という。もちろんそんなものは要らないので断るが、やはり聖地といえども観光地なのだなと思う。それでも納経してくれたおばさんは気さくに話しかけてくれ、「何年かかりました?」との問いに5年というと「よく頑張ったねー、おめでとう」と労ってくれた。どうせビジネスライクに納経するのだろうと思っていたので嬉しかった。

杉木立の2キロを戻り高野山の町に入る。目的は達成したのでこれで帰ってもいいのだが、せっかく高野山にきたので新たな視点で散策することにする。といっても金剛峯寺と壇上伽藍くらいなので、バスには乗らずにのんびり歩いていく。金剛峯寺を含め建物には特に思い入れもなく、根本大塔だけは中に入ってみたが、仏像が大きいなという程度だった。ただ、高野山全体の雰囲気はとてもいい。時間の制限もないのでゆっくりと雰囲気を楽しんだ。

根本大堂

帰途は再びバスに乗って高野山駅へ。駅前の食堂で胡麻豆腐うどんというのを食べ、ケーブルで下って特急に乗り継ぐ。朝早かったこともあり、帰途は難波まで爆睡だった。

四国遍路 9_5

5月3日

5日目

やはり目が覚めると3時半。例によって5時半くらいまで布団の中にいる。前回と同じく朝の勤行があるということで、6時半に例のセコムしてある通路から本堂へ向かう。

前は座布団に正座していたように思うが、今日は椅子が並べてある。少し遅れて住職が登場。我々とそんなに離れてるわけではないがマイクを用意してあり、スピーカーからお経が流れる。般若心経等を終えたあと、いつかのように講話があるかと思ったが、そのまま終わってしまい肩透かしを食らったような感じだった。

勤行が終わるとすぐに食堂に行って朝食。団体のうちの一人のおばさんが皆に巾着袋を配り、私もいただいた。接待とのことで中を見てみると、なぜかポケットティッシュが入っている。大阪は堺の何かの講のようで、毎回手作りした巾着袋をくばっているとのこと。

2回お世話になったビジネスホテルのような宿坊

朝食を美味しく頂いて部屋に戻る。今日はゆっくり出発してもいいのと、外を見るとまたもや霧雨が降っているので、結局7時半と遍路にしては異例に遅い時間に出発。霧雨はたいしたことないので何も付けずに歩いていくが、次第に多くなってきたので菅笠のビニールカバーだけを装着する。それにしてもしつこい雨だ。昨日あんなに降り、雨の中心は東へ去ったというのに意地悪くいつまでも残っている。南には焼山寺山の山脈が望めるはずだが、雲に隠れて裾野しかみえない。

5年前に逆から来た道だがよく覚えていて、6番安楽寺の横を通り町の中へ。1番まではどの札所にも寄らないつもりだが、5番地蔵寺だけはトイレに立ち寄らせてもらう。当時は豪華とか書いていたが、今見るとそれほどでもない。足に銀杏の直撃を食らった大きなイチョウの木も健在である。すぐに出発。

山門の向こうに大銀杏

この辺になるとすれ違う遍路も多く、昔の自分を振り返っているようだ。3番金泉寺あたりでようやく雨が上がり、日がさしてくる。今回は天候には恵まれなかったが、このように要所では晴れてくれたのでありがたいことではある。考えてみると、これまでも強烈な遍路ころがしなどではことごとく晴れてくれたので、文句言わずに感謝したほうがいいのかもしれない。

初日に歩いた懐かしいへんろ道

板野の町を過ぎ、2番極楽寺の山門横を通過すると、残りわずか1キロ。次第に気分が高まってくる。

やがて最後の橋にかかると行く手に塔が見えてきて、とうとう1番霊山寺に到着。懐かしい山門で一礼して入り、まっすぐ本堂内にある納経所へ向かう。昔と同様に靴を脱いで上がり、納経帳の最後のページを開いて差し出すと、「おめでとうございます」と言って、朱印を押して何やら「最後まで着きました」的な書を書いていただいた。納経帳を押し頂いて本堂から出る。

何もわからないときにくぐった一番の山門

これで本当の最後である。脇のベンチに座って荷を解き、遍路終了となった。最後の最後に晴れてくれて気持ちのいい空になった。88番を打ち終えたような感慨もなく、何か妙にさっぱりした気分である。

次の列車まで時間があるので、荷を置いて霊山寺内をゆっくり散策する。ここも思ったより狭い境内で、やはり当時は初めてで気持ちが上ずっていたのかなと思う。道具を買った店もしみじみと眺めながら遍路の余韻を楽しむ。

やがて時間になったので名残惜しみながら札所を後にし、最寄りの坂東駅に向かう。ほどなくやって来た1両の列車に乗って徳島へ向かい、昼食をとったあと大阪行きのバスで四国を後にする。

本日は短くて、歩行26、000歩、15キロ程度。

5年越しになった遍路旅もようやく終りを迎えた。いろいろと経験や得るものが多い旅だった。
帰ってから統計をとってみると、
・総日数:47日(途中で終わったものも含む)
・総距離:1、168キロ
・総歩数:1、879、000歩
・宿泊:38泊
となった。

こうやってまとめてみると我ながらよく歩いたと思う。最後まで歩けたことに感謝。

四国遍路 9_4

5月2日

4日目

目が覚めて時計を見るとまだ3時半だ。外からは結構な強さで雨の音が聞こえてくる。今日が雨なのは覚悟しているが、これくらい強いとさすがに気が滅入る。そんな夢うつつ状態で5時まで布団の中。起きて準備して、6時から朝食。

昨日遅くに着いたのか、もうひと組のご夫婦がおられた。ご夫婦ふた組はこのまま高野山へと向かうとのことでバスに乗り、残りの単独行3名は雨の中1番を目指すことになる。サラさんは我々と違う大坂峠ルートなのでこれでお別れ。昨日カードいただいたので、裏にアルファベットで名前とアドレスを書いた納札をお渡し、お互いに「グッドラック」「お気をつけて」と、昨日同様逆の国の言葉でお別れする。

入念に準備し、スパッツとポンチョを装着してフル装備で7時前に出発。まだ薄暗い中、国道を進んでいく。道は急に綺麗になったり古いままだったりを繰り返すが、時折工事現場がある。いずれすべて綺麗になるのだろうが、歩く身としてはあまり面白くない。雨も強くなったり弱くなったりし、時折強い風が吹いてポンチョがめくれ上がったりして鬱陶しいが、一旦雨の中に身を置いてしまうと思ったほど不快でもない。濡れたって死ぬわけではないし、山と違って夕方には宿に着いて風呂に入れるのだからそれまで辛抱すればいいことだ。ただ閉口するのは、靴の中に雨が染み込んでずぶ濡れになるのと、スパッツが覆うのは膝下からなのでポンチョがめくれ上がると膝がもろに濡れてしまうこと。

スパッツは今まで使っていたのが寿命となり買い換えたのだが、せっかくなので靴紐まで覆うことのできるヒサシの付いたものにした。確かに靴の中まで水が染みてくるのは遅くなったが、最終的に靴中がビショビショになるのは同じだった。一方膝が濡れる件だが、ポンチョの裾をスパッツに押し込んだりしてみたがうまくいかない。歩きながらどうにかならないか考えて一計を案じた。持ち歩いている細引きで縛るという案で、どこかの軒先をお借りして準備する。適当な長さに紐を切り、ポンチョの裾をひねってそこに紐をくくりつけ、紐のもう片方をスパッツから出ているゴムひもに括りつけるのである。長さを調整することでうまくいった。
隙間ができるのは仕方なく全く濡れないわけではないが、風で捲れ上がることもなく首尾は上々である。ただ、ポンチョを脱ぐときにいちいち紐を解かないといけなくなるが・・・。

そんな状態で歩き続け、県道2号への分岐を過ぎると「徳島県」の看板を通過する。とうとう発心の道場阿波へと戻ってきたわけだ。その先の広場にあった自転車置き場の屋根の下で立ったまま休憩。コースは南下して10番札所を目指す。道はまっすぐで先がよく見えるが、やがて先に出発した同宿のおじさんを捉えた。先行してしばらくすると、岩野トンネル手前にバス停と屋根付き休憩所があり、ここでようやくザックを下ろして休憩する。

阿波の国に戻る

おじさんが追いついてきてお互い雨についてボヤいたりする。今は雨が小康状態なのでゆっくり歩いているらしいが、それでもこのままのペースで行けば宿に早く着きすぎてしまうという。今日の行程は今回でも長い方なのだが、雨なので早足になるのと立ち寄るところがないので、考えていたよりハイペースで進んでしまっている。今晩もこのおじさんと同宿なのだが、電話して聞いてみたところ13時以降なら入れるとのこと。それくらいならと安心するが、早く着きすぎて困るというのも考えてみたら変な話だ。

一息いれておじさんより一足先に出発。雨が再び強くなってきた。「犬墓(いぬのはか)」という変わった地名をすぎ、道は県道から逸れて細い道に入る。集落の中を抜けていくが、雨は強さを保ったままだし景色は面白くないし、まさに苦行である。それでも歩を進めて高速道路の下をくぐると左折して東進する。

やはり景色は変わらないし、雨に加えて風まで強くなってくるし、靴の中の気持ち悪さは限界だし、悶々としながら歩いていると、思わぬところに建物があり、中に椅子などがある。よく見ると猿田彦大神と幟が上がっているので、ここで休憩させていただくことにする。猿田彦大神の像に一礼しベンチに腰掛ける。靴下とインソールを用意していた予備のものに換えると生き返ったような気分だ。どうせ早く着いてもしかたないのでここで時間をかけて休憩することにする。

休憩して息を吹き返す

やがておじさんが追いついてきて、私が休んでいるのを見て「いいとこがあるなぁ」と言いながら建物に入ってきた。次に9番法輪寺まで行って休憩しようと思うと言うと、おじさんはそれだったらここでゆっくり休んで行くという。しばらく雨の景色を眺めながら休憩。建物の中からだと雨の景色も情緒があっていいが、これからこの中に出ていかなければならないとなると話は別だ。勇気を出して再び雨の中を出発。

歩きながら考えるが、確かにおじさんの言うとおりで、もともと1番のお礼参りまで途中の札所には寄らないつもりだったが、9番は平地にある札所で確か屋根付きの休憩所もあったので寄ろうと思っていただけで、思いがけず良いところで休憩できたし、このペースなら宿には14時くらいになると踏んだので、このまま進んで行くことにした。

道はやがて10番切幡寺への登り口の交差点に着く。この景色には見覚えがあり、少し上に5年前に入ったうどん屋もある。懐かしく思いながら通過して先を急ぐ。雨はますます強くなり、せっかく換えた靴下も既にずぶ濡れだ。懐かしい景色も眺めている余裕もなくうつむき加減で歩く。時々屋根やヒサシを見つけて雨宿りするのが関の山だ。

懐かしいうどん屋

切幡寺からは順路と逆に歩くので、道しるべの矢印が反対を向いているのが新鮮だ。逆打ちというのはこんな感じなのだろうなと思って歩いていると、ぼちぼち歩き遍路とすれ違う。すれ違う時つい杖の先を見てしまうが、皆新しいので遍路を始めたところなのだろうか。

法輪寺への分岐は直進し、分岐点にあるお遍路休憩所でこれまた立ったまま一息入れる。ひたすらまっすぐな道を進み、8番熊谷寺のこれまた見覚えのある山門を眺めながら通過。結局景色も雨足も変わらぬまま、今日の宿である7番十楽寺に到着。13:50でだいたい予想通りだった。

十楽寺の宿坊は遍路をはじめて最初に泊まった宿で大変懐かしい。山門をくぐり宿坊に入る前に休憩所で雨具を解き、受付へ。相変わらずビジネスホテル顔負けの宿だが、受付の方は優しく、雨の中頑張って歩いてきたことを労ってくれる。受付をしてカードキーを受け取ってエレベーターで部屋にあがる。

前知識なしで入ると100%宿坊とは思えないツインのベッドがある部屋に入ると、早速靴下を脱ぐ。ずぶ濡れの靴下を脱ぐだけですでに極楽の気分である。雨具等は干し、靴には貰った新聞紙を丸めて詰め込み、同じ階にあるコインランドリーで洗濯。16時30分から風呂に入れるとのことで、前回入らなかった大風呂に入ると広々とした湯船にはジェットのスイッチまであった。

ビジネスホテル顔負けの宿坊

食事は17時30分から。向かいには例のおじさんがいて、我々以外は団体だったのでおじさんと話し込む。いずれにしてもこんな雨のなかよく頑張ったが、テレビを見ると東海や関東では大雨となっているので、まだこの程度の雨でよかったと思う。

本日の歩行は37、000歩、27キロ。

四国遍路 9_3

5月1日

3日目

今回はゆっくり寝ることができ、目が覚めると4時半。5時半ころまで布団の中でまどろみ、準備して6時半に朝食。楽しく話しながら美味しいご飯をいただく。出発の時にお接待として昼のお弁当とみかん、お茶をいただいた。いつもながら遍路宿の暖かい心遣いに感謝する。とにかくいい宿だった。

7時を過ぎて出発。今日は予報では1日曇りと言っていたが、今は晴れていて日がさしている。結願の日なので天気がいいのは嬉しい。

こと電志度駅の前を通って県道に出るが、今日は平日なので登校の子供や学生と次々すれ違う。すぐに右折して県道を延々と南下していく。晴れていて自分の影が出ているのが嬉しい。雨を経験すればこそ晴れのありがたさが分かる。讃岐に入るまでずっといい天気だったのでこういう感覚を忘れてしまっていたのかもしれない。しかし暑くて汗はかくし体力は消耗するし、晴れていたらいたで晴れのしんどさもあると思う。

こと電志度駅

途中先行した同宿のご夫婦に声をかけながら追い抜く。長尾橋を過ぎたあたりで年配女性二人連れの遍路とすれ違う。すれ違いざまに「今日で打ち止め?」と聞かれ、そうですというと「おめでとう」と言われる。最後が近づいていることが実感される。

8:45に87番長尾寺到着。ここも平地の札所で、山門を抜けると境内はあまり建物がないので小さいわりに広々としている。納経してしばらく休んでいると例のご夫婦が追いついて来る。ここも人が少なくゆっくりできるので、結願を前に十分に休憩をとる。9時を過ぎて出発。しばらく歩きにくい町中の道を南下する。町を抜けると道をそれ、里山に入っていく。一心庵を過ぎると大岩に直接像が彫り込んである高地蔵がある。

大岩に刻まれた仏像



県道に合流すると次第に高度を上げていき、しばらく歩くと前山ダムのサイトを過ぎ、その先に「前山地区活性化センター」というのがある。ここには「おへんろ交流サロン」というのがあり、資料展示館などがあるという。

早速入ろうとすると、ちょうど遍路姿の外人女性も同時に入ることになった。中に入ると大きな四国の立体地図があり、眺めているとその向こうからおじさんに手招きされる。椅子に座るとお茶を出していただき、歩き遍路だというとここで歩き遍路だけに「遍路大使任命書」なるものを作ってくださるとのこと。横には先ほどの外人女性も座りカタコトで話していたが、前のおじさんが結構流暢に英語で話しかけている。このおじさん自身トルコからポルトガルまで歩いているらしく、言葉が流暢なのも頷ける。女性はオーストラリアからきたサラ・イーグルさんという名前。私の倍以上もある大きなザックを背負っている。

おじさんは我々にこれからの道順を丁寧に教えてくれる。ここから88番までは2通りの道があり、大回りになる旧遍路道と、近いが急峻な女体山越えのルートである。当初当然のように女体山越えにしようと思ったが、調べてみるとこちらは国土交通省が設定した「四国の道」で、やはり旧道にこだわりたいと思い遠回りとなる旧遍路道を通ることにした。サラさんはこんな荷物を持って女体山を越えるそうだが、こちらは鎖場もある難所である。

せっかくなので、隣にある資料展示場をのぞきに行ってみる。江戸時代の納経帳や納札などいろいろと展示していて大変興味深い。サラさんもやってきて、先ほどのおじさんが英語で説明している。さすがに「奥の院」とか「納札」で英語がわからず戸惑っているが。十分に堪能してから出発する。

江戸時代の納め札

出発する前に館長自ら筆で名前を記入してくれた「四国八十八ヶ所遍路大使任命書」をいただく。遍路は自分自身のことなので誰かに証明してもらうこともないと考えているが、こういうのは単純に嬉しい。出発する時に、同様に英語で名前を書かれた任命書を受け取ったサラさんに「グッドラック」と言うと、向こうも「お気をつけて」とお互い逆の国の言葉で挨拶して分かれる。彼女とは今夜は同じ宿なので、後ほど会えることになる。

遍路道は少し戻ってから左折するが、なんの変哲もないアスファルト道で、しかも結構急な坂である。地図では歩き道のようになっているし峠の写真では遍路道になっていたのだが、どうもすべて舗装されてしまったらしく、とうとう最後までただの車道だった。途中には残土処分場までありダンプカーが登ってくる始末。こんな道だとわかっていたら女体山越えにするべきだった。

いつまでも上り一辺倒で、さすがに疲れてきた頃に休憩所があったので、ここで宿で貰ったお弁当を開くことにする。おにぎりに漬物、ゆで卵まで入っていて美味。包み紙の中には紙片があり、「またお会いできますよう」と書いてあってホロリとくる。

心に染みるお弁当

このあたりから空が急に曇ってきて霧雨が降ってきた。菅笠にカバーをかけて出発。ほどなく最高地点の相草東峠を越える。峠を越えると県道に合流し道は下っていく。さらに多和小学校のところで国道と合流し、しばらくするとまた上りになる。地図では道がくねくねしているがまっすぐの良い道になっているので工事したのだろう。どちらにしても歩いていてあまり楽しい道ではない。三十丁のところにまた休憩所があったので最後の休憩にする。このあたりからまた天気が良くなってきた。道と同様ムラがある天気だ。

再び歩き出し、しばらく行った竹屋敷から旧道に入る。交流サロンで貰った地図によると旧来の遍路道があるらしいがよくわからない。よくよく注意して左右を見ていると少し離れたところに丁石がある。草をかき分けて行ってみるとそれらしい道があった。これぞ遍路道と思って歩くが、いくつか丁石を越えたところで道がわからなくなってしまった。わずか数十メートルだったが、それでもいにしえの遍路道を堪能できたことに満足する。

いにしえの遍路道

元の道に戻るが次第に坂になり高度を上げていく。やがて88番まで1キロを切った案内を見つけ気分が高まる。坂はだんだんきつくなり地面を見ながら息を切らして歩いていき、ふと顔を上げると山門が見えていた。

山門が見えた!

14:00に88番大窪寺に到着。とうとう着いた!

山門をくぐって境内に入り、いつもの手順で本堂、大師堂で参拝、般若心経や真言を唱え納経所に。88番のところに納経していただき完了。これで結願(けちがん)となる。
感無量のはずだが今ひとつ実感はわかない。ベンチに座って目の前にそびえる女体山を眺めながらぼーっとする。感慨にふけるというより呆然としていたと言ったほうがいいかもしれない。もう新しくまわる札所はないのだという寂しさもあった。しばらくそうしていると誰かに、歩きですかと話しかけられた。そうですと答えると、結願ですね、おめでとうございます、と言われ、ここで初めて実感が湧いてきた。

呆然と見上げた女体山

もうしばらくこの気分を堪能したかったが、いつの間にか再び雲が厚くなってきたので出ることにする。まだ14:30なので門前にあるどこかの店に入ろうかと思ったがどこも観光客が結構いたので入らず、今日の宿は目前にあるので早々に入れてもらうことにした。こんな時間だというのに風呂にはすぐ入れるとのこと。洗濯もお接待で無料だし、部屋には洗面所とトイレが専用でついている。壁には専用の杖立ても備わっていて、歩き遍路にとって完璧な宿である。

杖たてまで備わった完璧な宿

早速風呂に入る。湯が熱すぎたので少しうめて入る。風呂はいつでも最高だが、結願後の風呂はまた格別であった。時間が早すぎるので部屋で散々ごろごろしたあと夕食。食堂には例のサラさんやご夫婦がいる。結願のお祝いにと食事には赤飯がついてきて嬉しい。ビールを頼むとサラさんは「OSAKE」を注文。「コングラッチュレーション」などと言いながら乾杯する。

お互いによく言葉がわからないが酒が入ってくると舌もなめらかになり、カタコトでも意思は通じるようになる。彼女はまだ学生で、通し打ちをやってきたらしい。女体山はどうだったかと聞くと、手のひらを垂直にしてかなりきつかったと説明。遍路自体は英語で書かれたガイドブックを頼りに回ったみたいだが、見せてもらうとちゃんと宿等も明記されていてわかりやすい地図だ。私も以前オーストラリアに行った話などして盛り上がる。

最後にカードをくれたので見てみる。名前は「Sarah McFarlane-Eagle」とある。明日はどうするのかと言うと、大坂越えで引田まで行って一泊、その翌日に一番にお礼参りとのことで、お礼参りは同じだが私とは行程が違う。その後高野山に行き、京都を回ったあと成田から帰国するということで、来週には学校に戻らなければならないと少し寂しそうだ。私もNext weekにはWorkだと言ってお互い笑った。

他の人も当然ながら高野山に行くようで、例のご夫婦は、明日は天気が悪いのでお礼参りはせず、直接高野山に行くそうだ。私も当初和歌山に宿をとっていてそこから高野山に行くつもりだったが、四国は四国で完結すべきだと考え直し、宿はキャンセルして高野山は後日行くことにした。関西にいるのでいつでも行けるし、観光地と化している高野山はGWには人だらけだろうと思ったのもある。楽しいひと時を終えて部屋に戻る。

今日の歩行は35、000歩、23キロ。
結願の喜びと夕食時の楽しいひと時を思いながら眠りにつく。