OSA日記

旅と食と健康とメンタルと

ばね指

指先に違和感を覚えはじめたのは10年近く前になる。

 

右手の中指を曲げるとわずかに引っ掛かりを感じるようになった。たいしたことはなかったので放っておいたが一向に治らず、違和感は次第に大きくなっていく。

 

そのうち、農作業などで手をよく使ったあとには痛みを感じるようになってしまった。指を曲げるとカクッとひっかかるようになり、朝起きた時には強張っていて、曲げるとかなり痛みが生じるようになった。

 

調べてみると弾発指、通称ばね指というらしい。指は屈筋腱という腱で曲げ伸ばしをするが、腱を押さえている鞘のようなものが、その名の通り腱鞘という。腱や腱鞘が炎症を起こすのがお馴染みの腱鞘炎だが、これが腫れてしまうことで腱が腱鞘の中を通りにくくなり、そのうち引っ掛かりができてしまい、カクッと曲がるようになってしまうのだ。

 

理屈が分かっても治るわけではないのだが、とにかく朝一に指を曲げるのが苦痛なので、寝ている間も指がまっすぐになるように、棒をテープでとめて、指を固定して寝るようにした。朝の痛みはマシになったが、次第に日常でも不便を感じるようになってしまい、とうとう医者に行くことにした。

 

検索すると、大阪のとある整形外科のホームページに、ばね指のことがとても詳しく書いてある。治療方法なども丁寧に掲載しているので、ここなら信頼できると思って行ってみた。

 

小さな医院だったが、ほぼ開始時間に行ったにも関わらず超満員で、診察までかなり時間がかかると言われて、受付をしたあと駅に戻ってお茶をすることにした。

結局2時間近く待ってようやく診察。

 

先生は大変丁寧に説明してくださり、エコーを見ながら状態を教えていただく。

治療には松竹梅があり、松は安静にすること、竹はステロイドを打つこと、梅は手術することだそうだ。安静にしてもラチがあかず、いきなりの手術も怖かったので、「竹」ステロイドを打つことにした。ただ、効果はあるが再発しやすいのが難点とのこと。

 

いきなり手の平に注射を打つと激痛なので、一旦手首から麻酔を打ち、効いてきてからステロイドを打つ。かなりな量で手がパンパンになった。

 

家に帰って夜になった頃には腫れも引き、翌朝には引っ掛かりがほとんどなくなったのでたいしたものだった。1週間くらいで完全にスムーズになり、引っ掛かりに慣れていたので、それがなくなった日常は素晴らしいものだった。

 

ところが1年くらいたった頃、忘れていた引っ掛かりを感じるようになってきた。恐れていた再発で、やはり完治するには至らなかったようだ。しばらくは我慢していたが、もう一度前回の先生のところに行くことに。

 

同じ説明のあと、前回同様、竹か梅かどうするかと聞かれ、もう一度だけステロイドを打つことにした。効き目は前回と同じで、引っ掛かりはなくなったが、ボランティアとか畑仕事とか、手というものはよく使うもので、やはり1年くらいで再発してしまった。

 

ただ、手を酷使したあとは酷くなるものの、よくストレッチをすることで引っ掛かりはだいぶ軽減できることが分かり、ごまかしごまかしそのままで過ごすようになり、数年が過ぎた。

 

今年に入り、家の木を切ったり根を掘ったり、ボランティアで木を切ったり田植をしたりと作業が続き、ばね指はとうとうごまかしがきかないくらいの状態になってしまった。

いよいよ決断の時だと思い「梅」の手術をすることにして、電話をかけて予約をすることにした。

 

ばね指の手術は、いくつかある腱鞘の一つ、A1腱鞘を切開するというもので、通常は術後に縫合するため抜糸に1週間くらいかかるらしい。が、ここの先生は特別な器具で手術することで傷口がきわめて小さくなり縫合の必要がなく、3日くらい水に濡らさなければそれで良いという。

 

診察していただき、手術には問題はないとのことで、一般の受診が終わるのを待つ。当日は同じ手術を受ける人が4人もいて、順番に行う。予約していた私が1番だったが、他の3人は診察に来て、当日いきなり手術を受けることになったらしく、えらくカジュアルな感じだった。

 

手首から麻酔を打ち、30分後にもう一度手のひらに麻酔、やがて麻酔が効いて痺れてきた頃に手術。といってもほんの1分くらいで終了。全く痛くもない。終わったその時点で指を曲げてみるように言われて恐る恐る動かすと、引っ掛かりは全くない。感無量である。

 

大袈裟なくらい包帯を巻かれて終了。そのまま電車で帰る。

 

翌日診察でもう一度行き、状態を見ていただく。麻酔が切れた後はどうしても違和感があるが、指を曲げてみるように言われてその通りにすると、結構曲がる。先生からも翌日にこんなに曲がる人は少ないと言われる。包帯は絆創膏になり、これで終了。あと2日濡らさなければいいそうで、どうしても1ヶ月くらいはむくみが続くので、リハビリを兼ねて指は積極的に動かすように、とのこと。

 

絆創膏を貼ってくれた看護師さんは、ばね指の手術は今月で60人以上とのことで、世の中にはかなりばね指で困っている人が多いことと、この先生の手術数が凄いことが感じられた。

 

あれから5日ほど経ち、かなり指は動くようになった。まだまだ違和感はあるし、何かのはずみに痛みはあるが、手を切開したにもかかわらず、数日でこの状態というのはなかなかたいしたものだ。

 

何よりも、何年も悩まされた指の引っ掛かりがなくなり、開放感がハンパない。

予定と期限

予定をたてると、だいたい期限が付きものだ。
大概「いつ何々をする」か、「いつまでに何々をするか」のどちらかになる。

ところが、期限がないものもある。
「予定」と言っていいものかどうかわからないが、「何々をしよう」とか「何々をしたい」といった感じ。

私はこのような場合両極端で、突発的に始めてしまうか、いつまでたってもやらないか、どちらかになることが多い。

以前のブログでも書いた四国遍路や、家庭菜園、農業ボランティアなどがそうだ。
遍路は漠然と「行きたいな」などと思っていたのが、突発的に準備を初めて出発してしまったし、家庭菜園や農業ボランティアも同じで、いきなり申し込みをしてしまった。
どちらも事前調査や道具の調達、様々なスケジュールなどかなりの工数があったのだが、我ながらなかなかのバイタリティで進めたものだった。

一方、やらない予定はいつまでたっても始めない。
長く会っていない友人と飲みに行きたいとか、古くなった車のドライブレコーダーを新調したいとか、PCのデータ整理とか・・・
スマホのToDoリストはかなりいっぱいだが、この状態がちっとも変わらない。

やらない理由ははっきりしていて、いずれも「面倒くさい」だ。それを越えるモチベーションがあればさっさと始めているに違いない。

「面倒くさい」を乗り越えられないような予定など立てなければいいと思うのだが、思いついてToDoリストに加えてしまった予定はなかなか消すことができない。
少なくとも期限を決めると始めるのだろうが、無理やり期限を設定しても平気で破ってしまうのでたちが悪い。

それにしてもこの「面倒くさい」という気持ちは、歳とともに増大していく傾向にある。
ボランティアや朝晩の散歩など、すでにルーチンになっていることは継続して行えるのだが、新しいことや普段やらないことは「面倒くさい」が先に立ってしまい億劫で仕方がない。困ったものだ。

なぜこんなとりとめのない文章を書いたかというと、「ブログの更新」が期限なしの予定であり、前回からかなり期間が空いてしまったからだ。
なんとなくいつも心の片隅に存在していて気になっているのだが、どうしても筆が進まない(キーボードが進まない、というべきか)。

風呂でぼーっと考えていて、このままではいけないと思った次第です。

悪いことは一瞬

仕事の帰り、自転車に乗っていると雨が降ってきた。

 

横着して自転車に乗ったまま、前カゴに入れていたカバンから傘を出そうとして、気を取られていてハンドルに膝をしたたかに強打してしまった。

 

どこをどうやったらハンドルで膝を打つのかわからないが、しばらくペダルが漕げないくらいの痛みだった。惰性で走っているうちに漕げるくらいには回復したので、何とか駅までたどり着くことはできた。ただ、痛みはその後2〜3日続き、ひどい目にあった。

 

それからあまり日を置かず、自宅で空気清浄機に足の小指をぶつけ、痛くてうずくまるくらいになり、また別の日には座っていて椅子を前に進めた時に、かかとがキャスターに巻き込まれて、皮がめくれて血が出てきて大いに痛かった。いずれも実に些細なことだが、なかなか治らず地味に痛みが続く。

 

こんなことになるとは、その直前まで想像もしないものだ。いきなり訪れる不幸に、何も痛くなく過ごせたほんの少し前がとてもありがたく思えるようになる。悪いことは一瞬で起こるものだとつくづく思う。

 

しばらく痛いくらいならこの程度の感想で済むが、中にはこれで足の指を骨折した人もいる。突き詰めると、車に跳ねられたり心筋梗塞で倒れたりと、上(?)を見るときりがないが、とにかく不幸なことは我が身のすぐ隣に控えているような気がする。

 

半面、良いことはあまりこういうことは無いような気がする。突然大金が入ったり、急に健康になったりするなどということはほぼない。良いことはコツコツと積み上げていって、それでいて劇的に良くならず、よくて現状維持程度になることが多い。必ず良くなるとも限らない。何か不公平だと思う。

 

逆に考えると、悪いことが無いことが素晴らしいことかなと思ったりする。身体がどこも痛くないことがどれほどありがたく幸せなことか、どこかが悪くなって初めて気づく。

 

空気のありがたさは、空気がなくなって気づくが、その時にはすでに手遅れ。

 

まあ、だからといって常に危険を予想して身構えているわけにもいかない。最終的にはなるようになるしかないので、そうなってしまったら諦める他ないのだが、どこか心に留めておいても損はないかもしれない。

 

トラブルなく1日が終わったら感謝するべきだろう。「ありがとう」という感謝の言葉は、有り難い、つまり「有ることが難しい」ということ。反対の言葉は「当たり前」になり、何事もなかった1日というのは当たり前ではないのだ。何事も有り難いと思わなければいけないのかもしれない。

確率

我々は毎日ごく普通に生活しているが、とてつもなく低い確率の上に生まれ、育ち、生活している。

 

仏教などでも言われるが、縁というやつである。

自分が存在するためには両親がいて、その両親が存在するためにそれぞれの両親がいて、延々遡ると、自分一人が生まれるために何人必要なのか、ということになる。

生まれてきただけでもなかなかの確率だが、これまで死なずに生きてきたのもたいしたものだと思う。

 

しかし、そのような確率など足元にも及ばないのが、現在地球が存在していることのようだ。

 

地球ができて約46億年(よくそんなことが分かるものだと感心するが)。

これまで順風満帆にことが進んだわけではない。というよりむしろ苦難の連続だったらしい。

 

地球が出来て1億年くらいの時に、ジャイアンインパクトというのがあり、火星くらいの大きさの惑星(テイアというそうな)と衝突した。斜めにぶつかったので完全破壊にはならなかったようだが、もちろんめちゃくちゃに壊れて飛び散り、再集結したのが現在の地球だそうだ。

 

ぶつかったテイアの重い金属コアが原始地球に落下して、今でも外核の外側に張り付いている。そのおかげで地球内の金属部分がかなり増量し、大きな金属対流が生まれた。この対流は地球に磁場を作る。現在でも地球を守っている磁場の大きさは、金属が増量したことによるもの。で、この磁場は大切なバリアで、これがないと太陽からの太陽風や様々な粒子、放射線が直に降り注ぐことになり、生命は存在できない。

 

また、地球は地軸が傾いていて、普通ならゆらゆら揺れてしまい、とても安定した回転にはならない。テイアの衝突で飛び散った破片が原始地球の周りを回り(土星の環みたいなもの)、それがやがて合体したのが月だそうだが、この月が公転することで地球の回転が安定しているらしい。安定した回転のおかげで安定した環境が生まれ、四季などもできた。

 

そのころの地球は灼熱状態で、水などの揮発性物質は存在できなかった。そこへ木星が太陽に接近してきて、その影響で多数の小惑星群も影響され、地球や月に大量に降り注いだらしい。今なら一つ落ちただけでも大騒ぎだが、それが雨あられと降り注いだのだから大変な様相だっただろう。しかしその小惑星には水などの様々な揮発物質、生命の元となる物質があったそうで、それが降り注いだものだから原始の海や生命の源のアミノ酸などがもたらされた。おかげで生命が誕生したわけだ。

 

次に3億6千万年前、デボン紀後期に生物の大量絶滅があり、地球上の8割もの生物が死に絶えた。これは近くで超新星爆発があり、オゾン層が破壊されて紫外線や宇宙線が降り注いだのが原因らしい。多くの生命は死滅したが、比較的小型の生命が生き残り、頻繁に遺伝子が書き変わるおかげで進化が加速したらしい。この超新星は60光年くらいのちょうど良い位置にあったらしく、遠ければ影響はないし近ければ生命が全滅していただろう。

 

6600万年前、メキシコに直径10キロの小惑星が衝突し、この時にも大量絶滅が起こったが、ご存知のようにこその影響で恐竜が絶滅した。それまで生物界に君臨していた恐竜がいなくなったことで哺乳類が台頭し、今に至るというわけだ。

 

次々と起こったこれらの天変地異は、単にそれを切り抜けただけでなく、このインパクトがあったおかげで生命の存続や進化が促進されたということで、これだけの出来事の末に生命、ひいては人類が存在していることにただ驚嘆するばかりである。

 

これらの他にも様々な出来事があったと思うが、一つ言えるのは、この内どれ一つ欠けても自分は存在しなかったということだ。その確率は果てしなく小さい。

こういうことを知ると、何となく命を大事にしなければならないという気になってくる。

神様というのは本当にいるのかもしれない。

今に集中する

風呂にお湯を張って、さあ入ろうと蓋を取ると、湯船はからっぽ。栓を忘れたのだ。

何回これをやっただろう。

 

毎日やっているルーチンで身体が覚えていてもいいくらいなのに、こういうことがそんなに日をおかずに起こる。

 

いつも体組成計を腕につけているが、風呂に入るときだけ充電する。寝るときもつけているのだが、充電しているのを忘れるのだ。

朝起きて、ルーチンの散歩に行って、帰ってきて朝食を食べている時に、腕にいつものものがないのに気づく。よくまあここまで忘れられるものだ。

 

歳のせいというのもあるのだろうが、度を越している。認知症の始まりだろうかと心配になる。

 

最近なんとなく気づいたのは、どえらい忘れ方をするのは、なにか考え事をしているときが多いということ。我ながらいつもなにか考えていて(それも全くたいしたことではない)、いつの間にか時が過ぎていることが多々ある。

 

朝は決まった手順でストレッチをしているのだが、そんな時に考え事をしていると「あのストレッチはやっただろうか?」と思うこともある。

 

人間は同時に2つのことは絶対にできないそうだ(いわゆるマルチタスク)。同時にやっているように見えて、実は高速で切り替えているらしい。

で、自分の場合切り替えた瞬間忘れるらしい。

 

いろいろな教えで、昔のことも先のことも考えても仕方ない、今を大事に!というのがある。全くその通りで、自分はいつも先のことが心配になって仕方がないフシがあるので、今を大事に今を大事に、と心がけているつもりが、すぐに忘れてしまって不安が蘇ってくる。

これも何か別のことを考えた瞬間に、どこかに行ってしまうのかもしれない。

 

反省ばかりしてちっとも次に活かせることができないので、全く嫌になる。

 

四国遍路_高野山

5月12日

四国を打ち終えた1週間後、朝から高野山に向かった。

当初、四国を打ち終えたあとそのまま高野山へ向かうつもりをしていた。徳島からフェリーで和歌山に渡り1泊し、翌日鉄道で向かう予定で和歌山に宿もとっていた。予定をたてていた時は調子にのって、九度山から町石道を20キロ歩いて行く行程まで考えていたのである。前述した通り四国は四国で完結と考え直してこの予定は廃止し、高野山は別に行くことにしたのだった。

大阪から地下鉄に乗り継いで大阪の南の玄関口である難波へ。高野山へ行くには南海電鉄で行くが、「高野山世界遺産切符」というのが便利なので窓口で購入。行きを特急で行ける券にして一緒に特急「こうや」の指定席もとる。この切符は難波から高野山までの往復と、高野山内のバスが乗り放題、さらに土産物屋や寺院の入場料の割引券もついたものだ。トータルでも割安になる。

朝食がわりに立ち食いそばを食べてからホームに入る。特急こうや極楽橋行きは8時に出発。JRとの接続駅である橋本までは変哲もない大都市近郊路線だが、橋本からは単線となり険しい高野山へと分け行っていくため、急勾配・急カーブの連続となる。カーブが急なため極楽橋まで行く列車は通常のものより全長が短い。一つ前の車両が見えるくらいきついカーブが連続する。以前に乗った箱根登山鉄道を思い出したが、南海の面白いのはこの列車が大都会のターミナルから出た列車がそのまま走っていることだ。

高野山行き特急こうや

80分で終点極楽橋に到着。この駅は高野山に登るケーブルカーとの接続駅なので周りに何もなく、特急の乗客は全員ケーブルカーのホームへと進む。南海も鉄道とケーブルカーはひとまとめにしていて、基本的に「高野山行き」となっている。

極楽橋は標高500mを越えていてこの段階でかなり寒い。何でも高野山全体が岩盤の上にあるので、標高以上に冷えるのだとか。ケーブルカーは接続良く出発。ぐんぐん標高を上げていき、約5分で高野山駅に到着。標高は867m。さらに寒い。

極楽橋からのケーブルカー

当初せめて高野山駅からは歩こうかとも考えていたが、調べてみるとここから町まではバス専用道路で歩くことも禁止になっていたので、高野山切符にもバス乗り放題があることだしバスのお世話になる。バスは暖房が効いていて暖かい。暖房にほっとするなど冬の感覚である。バスはくねくね曲がる道を走っていく。

高野山の町を抜けて奥の院口で下車。ここから奥の院までは約2キロで、幽玄な杉木立の中を歩いていく。沿道には織田信長豊臣秀吉を始めとする戦国武将など有名人の墓が並び、その数20万基とも40万基とも言われている。比較的新しいのでは大岡越前井伊直弼などもあるが、古いのでは多田満仲(源氏の祖先)などもあり、石碑もかなり古い。高野山には何度も来ているので早足で歩いていく。中の橋を過ぎるとやがて奥の院が見えてくるが、2キロを約15分で歩き通した。時速は8キロとなり、空荷は本当に楽だ。

奥の院

御廟橋の手前で持参したロウソクと線香を灯し、橋を渡る。ここからは聖域で写真撮影も禁止。奥の院納札を納め裏に回る。奥の院裏には弘法大師御廟があり、ここは弘法大師が御入定されたところで、真言宗最大の聖地だろう。ちなみに弘法大師は現在も生きていて禅定を続けているとされ、奥の院の仕侍僧が毎日食事を給仕しているそうだ。全国に様々な伝説を持っている弘法大師ならではの逸話だろう。

弘法大師がここまでお見送りしてくれるという御廟橋に戻り、納経書で納経していただく。納経すると御姿を一緒にいただくのだが、ここ高野山では有料で白黒200円カラー300円という。もちろんそんなものは要らないので断るが、やはり聖地といえども観光地なのだなと思う。それでも納経してくれたおばさんは気さくに話しかけてくれ、「何年かかりました?」との問いに5年というと「よく頑張ったねー、おめでとう」と労ってくれた。どうせビジネスライクに納経するのだろうと思っていたので嬉しかった。

杉木立の2キロを戻り高野山の町に入る。目的は達成したのでこれで帰ってもいいのだが、せっかく高野山にきたので新たな視点で散策することにする。といっても金剛峯寺と壇上伽藍くらいなので、バスには乗らずにのんびり歩いていく。金剛峯寺を含め建物には特に思い入れもなく、根本大塔だけは中に入ってみたが、仏像が大きいなという程度だった。ただ、高野山全体の雰囲気はとてもいい。時間の制限もないのでゆっくりと雰囲気を楽しんだ。

根本大堂

帰途は再びバスに乗って高野山駅へ。駅前の食堂で胡麻豆腐うどんというのを食べ、ケーブルで下って特急に乗り継ぐ。朝早かったこともあり、帰途は難波まで爆睡だった。

四国遍路 9_5

5月3日

5日目

やはり目が覚めると3時半。例によって5時半くらいまで布団の中にいる。前回と同じく朝の勤行があるということで、6時半に例のセコムしてある通路から本堂へ向かう。

前は座布団に正座していたように思うが、今日は椅子が並べてある。少し遅れて住職が登場。我々とそんなに離れてるわけではないがマイクを用意してあり、スピーカーからお経が流れる。般若心経等を終えたあと、いつかのように講話があるかと思ったが、そのまま終わってしまい肩透かしを食らったような感じだった。

勤行が終わるとすぐに食堂に行って朝食。団体のうちの一人のおばさんが皆に巾着袋を配り、私もいただいた。接待とのことで中を見てみると、なぜかポケットティッシュが入っている。大阪は堺の何かの講のようで、毎回手作りした巾着袋をくばっているとのこと。

2回お世話になったビジネスホテルのような宿坊

朝食を美味しく頂いて部屋に戻る。今日はゆっくり出発してもいいのと、外を見るとまたもや霧雨が降っているので、結局7時半と遍路にしては異例に遅い時間に出発。霧雨はたいしたことないので何も付けずに歩いていくが、次第に多くなってきたので菅笠のビニールカバーだけを装着する。それにしてもしつこい雨だ。昨日あんなに降り、雨の中心は東へ去ったというのに意地悪くいつまでも残っている。南には焼山寺山の山脈が望めるはずだが、雲に隠れて裾野しかみえない。

5年前に逆から来た道だがよく覚えていて、6番安楽寺の横を通り町の中へ。1番まではどの札所にも寄らないつもりだが、5番地蔵寺だけはトイレに立ち寄らせてもらう。当時は豪華とか書いていたが、今見るとそれほどでもない。足に銀杏の直撃を食らった大きなイチョウの木も健在である。すぐに出発。

山門の向こうに大銀杏

この辺になるとすれ違う遍路も多く、昔の自分を振り返っているようだ。3番金泉寺あたりでようやく雨が上がり、日がさしてくる。今回は天候には恵まれなかったが、このように要所では晴れてくれたのでありがたいことではある。考えてみると、これまでも強烈な遍路ころがしなどではことごとく晴れてくれたので、文句言わずに感謝したほうがいいのかもしれない。

初日に歩いた懐かしいへんろ道

板野の町を過ぎ、2番極楽寺の山門横を通過すると、残りわずか1キロ。次第に気分が高まってくる。

やがて最後の橋にかかると行く手に塔が見えてきて、とうとう1番霊山寺に到着。懐かしい山門で一礼して入り、まっすぐ本堂内にある納経所へ向かう。昔と同様に靴を脱いで上がり、納経帳の最後のページを開いて差し出すと、「おめでとうございます」と言って、朱印を押して何やら「最後まで着きました」的な書を書いていただいた。納経帳を押し頂いて本堂から出る。

何もわからないときにくぐった一番の山門

これで本当の最後である。脇のベンチに座って荷を解き、遍路終了となった。最後の最後に晴れてくれて気持ちのいい空になった。88番を打ち終えたような感慨もなく、何か妙にさっぱりした気分である。

次の列車まで時間があるので、荷を置いて霊山寺内をゆっくり散策する。ここも思ったより狭い境内で、やはり当時は初めてで気持ちが上ずっていたのかなと思う。道具を買った店もしみじみと眺めながら遍路の余韻を楽しむ。

やがて時間になったので名残惜しみながら札所を後にし、最寄りの坂東駅に向かう。ほどなくやって来た1両の列車に乗って徳島へ向かい、昼食をとったあと大阪行きのバスで四国を後にする。

本日は短くて、歩行26、000歩、15キロ程度。

5年越しになった遍路旅もようやく終りを迎えた。いろいろと経験や得るものが多い旅だった。
帰ってから統計をとってみると、
・総日数:47日(途中で終わったものも含む)
・総距離:1、168キロ
・総歩数:1、879、000歩
・宿泊:38泊
となった。

こうやってまとめてみると我ながらよく歩いたと思う。最後まで歩けたことに感謝。