OSA日記

旅と食と健康とメンタルと

青春18切符の旅 現在

久しぶりに青春18切符の旅に出た。(これは今年春の話です)

この旅はほとんど一人旅だったのだが、2日分残ったチケットがあると友人から連絡があり、早速旅のプランを作成することにした。

といっても、大阪から日帰りで行ける範囲はほとんど走破しているので、鉄道旅は素人の友人のために作ったプランは、初乗りの区間はなかった。コースは2つでき、北まわりか南まわりになったので、友人に選んでもらい南まわりになった。

久しぶりの18切符の旅を楽しみにして早起きし、始発に近い時刻の列車で出発、尼崎駅で落ち合う。

まずは東海道本線を東へ。大阪で米原行きの快速に乗り換え、終点まで。この路線はそれこそ何度も乗っているが、それでも車窓はたのしい。ともすれば通勤で使っている路線でも、いつも車窓を見ている。列車でスマホなどを見るのはもったいない。

天気が良い中、京都、大津、草津と次第に乗客を減らしながら進み、8時頃に米原に到着。路線はここからJR東海になるので、すべて乗り換えとなる。

入線してきたのは久しぶりの東海の車両でオレンジ色をしている。なぜかやたら窓がくすんでいて、景色が鮮明ではない。

その鮮明ではない窓を通して伊吹山がよく見える。このあたりは線路がジグザグしていて、太陽が行ったり来たりする。

伊吹山

関ヶ原で線路が別れるが、これは新垂井線といって、勾配の関係で輸送力増強のために作られた線で、かつては途中に新垂井駅があった。この駅は廃止となり、この路線は貨物や特急の専用となっている。

新垂井線が合流してきて、美濃赤坂からの路線も加わって賑やかになってきて、終点の大垣に到着。ここは鉄道の要所で、名古屋方面からの列車はだいたいここが終点。快速に乗り換えて名古屋に向かう。

途中、遠くに岐阜城、近くに清洲城を眺めたりしながら、9時を過ぎて名古屋に到着。

少し時間があるので朝食でも、と思って改札を出るが、近所も地下もまだ店は閉まっているので、駅に引き返してホームできしめんを食べることにする。1番線のきしめん屋に行って天ぷらを選択、注文が入ってから揚げられた天ぷらは熱々で美味だった。

ホームのきしめん

ここからは関西本線で西へ向かう。本線とは名ばかりで、単線の路線を短い編成で進む列車だが、快速というのもあってか速度はわりと早い。並走する近鉄は複線で、向こうは頻繁に走っている。

木曽川長良川揖斐川を長大な鉄橋で渡り、桑名、四日市と過ぎていく。四日市を過ぎると伊勢方面の伊勢鉄道が分岐し、しばらく走って終点の亀山。

かつて伊勢行きの夜行列車が朝に到着して、みんなが顔を洗っていたという長いホームだが、今は短い編成の列車しか来ない。しかもこれから乗り換えるのはキハ120という小型気動車で、なおさら短さが強調される。

久しぶりのディーゼル列車ではなかなか加速がよく進んでいくが、次の関を過ぎると山に入って行き加太越え。この路線も昔は蒸気機関車の名撮影地だったらしい。

山を越えると平地に入り、忍者で有名な伊賀上野草津線の分岐駅の柘植、後醍醐天皇が行脚された笠置と過ぎ、終点の加茂には12時を過ぎて到着。

加茂に着いたキハ120

ここからは関西の郊外区間となり、快速電車に乗り換えて奈良へ。乗り換えで少し時間があるので改札を出てみるが、駅ビルをのぞいたくらいでホームにもどり、待合室で昼食がわりのおにぎりを頬張っていたが、次に乗る桜井線の電車が早くも入線するとのことで、慌てて食べ終わって社内に入る。

新型の電車だがロングシート。昼下がりというのに結構な乗車率で出発。桜井線は日本最古の道である山野辺の道に沿って進む。このあたりは歴史好きにはたまらないだろうが、白眉は卑弥呼の墓ではないかと言われている箸墓古墳や王宮の跡と言われる纏向遺跡であろう。

大神(おおみわ)神社のご神体である三輪山も望めるが、このあたりは「日本最古」のものだらけで、大神神社も日本最古らしい。

近鉄に接続する桜井を過ぎ、大和三山耳成山天香久山などを眺めて、終点の高田に到着。ここでも乗り継ぎにしばらく時間がある。

次は和歌山線の和歌山行きで、けっこう長丁場。今度もロングシートの電車である。奈良県近鉄が幅をきかせていて、奈良、天理、桜井、高田などはJRも近鉄も駅がある。和歌山線も途中の御所(ごせ)も乗り継ぎ駅で、その先に停車した吉野口は改札内近鉄とJRのホームが同居している。

列車はしばらく停車し、その間に近鉄の上りと下りが先発していく。相互に乗り換えの客がいて、そういうダイヤになっているらしい。

スイッチバック北宇智駅を過ぎ、しばらく行くと和歌山線の中心駅である橋本に到着。ここでは南海電鉄との共同駅で、高野山へ行く電車とも乗り継ぎできる。

橋本駅。向こうの電車は南海

電車は紀ノ川に沿って進むが、このあたりは景色も平凡で、長時間座っていて尻も痛くなってくる。西国札所のある粉河を過ぎしばらく走ると、終点の和歌山。

和歌山駅では和歌山線のホームから乗り換える場合、ホームに設置された改札口を通る必要がある。18切符は機械が通らないので、窓口で申請して開けてもらう必要がある。

手間取っていると、接続のよかった快速が出発してしまった。急ぐ旅でもないので、トイレなどに行って次の紀州路快速に乗車。ここからは大阪まで乗り換え無しで行くことができる。

さすがに疲れてしまって熟睡し、18時30分頃に大阪に到着。せっかく連れがいるので、夕食にカレーを食べて別れる。

楽しかったが腰がしんどい。このような旅は若い頃は1週間くらい乗りつづけることができたが、今や1日でも十分。

四国遍路 5_4

4日目

夜中の物音のためいつものようには熟睡できなかったものの、6:00には起床し、6:30には朝食。食堂にいるのは遍路だけで、夕べ騒いでいた人たちはまだ夢の中なのだろう。

38番札所から39番まではさまざまなコースがあり悩んだのだが、昨日と同じコースを引き返すのが一番近いのでそれにしようと考えていた。が、食事のあと女将さんの「東回りで来たのなら西回りで行くといい。景色もいいし1時間くらい長いだけだから」の一言で、西回りに決定。そもそも昨日も早く着きすぎてしまったのであるし、「5キロ長い」というと長く思えるが「1時間長い」だとそれほどでもなさそうに思えたのだ。

7:00に出発、そのまま西に向かう。今のところ青空が見えているが、西の方は雲が湧いてきている。天気予報によるとさすがに連休後半は全国的に下り坂とのことだが、かろうじて高知県西部は「くもり」。ただ時々雨とのことでそれなりに準備をしていたが、結果的にはそれは杞憂に終わった。

旅館街を抜けると左手前方に臼婆(うすばえ)と呼ばれる岩礁を望みながら歩く。臼婆は黒潮が日本で最初に接岸するところだそうだ。太平洋の波とさまざまな岩礁を見ながら歩いていくが、こちらのコースはとても静かで車も人もほとんど通らない。前回歩いた横浪の内海コースに雰囲気が似ている。

臼碆

しばらく行くと県道を離れ、松尾の集落へ降りていく。これが結構急な坂道で、この後も県道はかなり高いところを走り集落は海際まで降りていくというパターンがいくつか続く。この遍路道もかなり下った途端上りの石段になり、位置エネルギーの無駄遣いだと思う。それでも降りてしまえばこういう集落の雰囲気はとても好きで、苦労してアップダウンする甲斐があるとも思う。

松尾の集落を抜けて県道に戻ると、いきなり道が分からなくなった。地図は少々曖昧な書き方をしているので分岐点が良く分からない。携帯電話のコンパスを使って方角を確かめてそちらのほうへ向かうと、果たしてそれっぽい道があり遍路道に入っていく。

道は山道に入っていくが、こちらはあまり人が通らないのか妙に荒れている。何度も倒木をくぐったり乗り越えたり、蜘蛛の巣にやたら絡まれたりと、歩く以外の苦労がたえない。延々と上っていく道を、息を切らせながら歩いて行き、ようやく舗装路に出る。

荒れ果てた遍路道

道途中に「唐人駄場」という案内を見つける。「日本のストーンサークル」という触れ込みが書いてあって大変興味を引く。ぜひとも行ってみたいと思ったが、往復4キロもの寄り道はさすがに出来ないので、帰ってからゆっくり調べてみたい。

舗装路のまま県道に出るかと思ったらいきなりダート(未舗装路)になり、さらに行くと遍路道と書かれた看板があったが、それが指し示す方向はこの先に道があるのかと思うくらい酷いところであった。

クモの巣が絡むので金剛杖を前で振り回しながら歩き、倒木が折り重なって越えられないところは横の急斜面を這い登って行ってかわしたりして、ちょっとした探検のようだった。

ようやく車がちらちら見えてきて、しばらく歩いてようやく県道に出ると、ほどなく県道と別れて大浜の集落に入る。ここにも鰹節工場があって昨日と同じ匂いがする。集落はそのままアップダウンを経て中浜の集落へ続く。中浜はかのジョン万次郎の故郷で、記念碑が立っている。ただ、万次郎関係はこれだけで、後は静かな集落である。

万次郎の碑

集落からは遥かな高みに県道の立派な橋が見える。あそこまで上がるのかと思うとため息が出るが、集落を抜けた後は相変わらず上り一辺倒、ため息は荒い息に変わる。

県道からはまたまた遍路道で、小さな峠を抜けると地図に書いてある。相変わらず荒れた道に入るが、100mも行かないうちに二重三重にクモの巣に絡まれ、ここはこれまで以上に酷い道だと危機感を感じる。距離も長くこのまま行くとろくでも無いことになりそうだと思い、今回ばかりは車道にしようと引き返すことにする。

結果的にはこちらが正解で、距離は長いもののゆっくりと下っていく道で歩きやすいし、ほどなく海沿いに出て土佐清水の町が遠望できるようになる。このまま海を渡って直線的に行けばかなり近いがそういうわけにもいかず、道はぐるりと相当な遠回りをして町に入ることになる。

町外れには「黒潮市場」という鮮魚や土産を売っている所があり、車や人がいっぱいだ。歩いている間はこういうのにはあまり興味はないが、その隣に公園があるので休もうと入っていくと、市場の前に屋台があって「鯖の竜田揚げ」というのが売っている。竜田揚げには目がないので300円を投じて買ってみたが、これがかなり旨かった。公園の東屋で靴を脱いで大休止しながら竜田揚げを貪り食う。

サバの竜田揚げ

このあたりから雲が晴れ、快晴となって日差しもきつくなってくる。

ずっと鄙びたところばかり歩いていたので大都会に見える土佐清水市街をぬけ、国道321号線で足摺半島の付け根を越えていくために上っていく。

この先には似布利トンネルがあるが、見えてきたトンネルはできたてのピカピカで、地図で見るのよりかなり長い。名前は同じなのでそのまま進んでいくが、やはり新しいバイパスが出来ていたようで、トンネルを出てもそのまま一直線に素晴らしい道が続いている。

一直線のバイパス

結局似布利の集落から昨日と同じ道を引き返す予定だったのが、昨日休憩した小学校のところが合流点となった。距離的には少しくショートカットできたようだ。

しばらく歩いて大岐海岸にでるが、木橋がどうなっているか分からないので「おかみち」を通ることにする。結果的には今日は木橋のところは引き潮で渡れたのだが、その辺りはまさにサーファーだらけでごった返していたので、やはりゆっくり歩ける国道でよかったと思う。

その後は昨日入り損ねた遍路道に片っ端から入っていくことにする。久百々からは海岸沿いに歩くが、これで太平洋は見納めだ。遍路ではもう太平洋沿いに歩くことはないので景色を目に焼き付ける。

やがて下ノ加江の集落が見えてきた。結局西側ルートでも早く着いたので今日のコースは正解だったと思う。

宿近くのコンビニで休憩を兼ねて時間つぶしをする。コンビニのベンチは「お遍路優先」となっており、60歳台と思しきご夫婦が座っている。話してみると奥さんがマメで困っているとのこと。靴や靴下のことをアドバイスするが、よく話を聞くと本格的な登山もしていて、百名山のほとんどを制覇しただの冬はスキーをするだの、とてもパワフルなご夫婦で、なんでマメに困っているのだろうと思う。

15時を過ぎ、すぐ裏にある宿Aに入る。先日と同様楽しく夕食を頂き、部屋でゆっくりする。やはり遍路宿は静かでいい。
21:00就寝。

本日の歩行は39000歩、およそ30キロ。
それにしても今日も予報とは違い良い天気だった。同じ高知でも中部から東は天気が良くなかったようなので幸運であった。

置き去り

確か小学5年生の時だったと思う。家族で北陸へ日帰り旅行に行くことになり、両親と年子の兄の計4人で大阪から急行で武生に向かうことになった。

ホームに到着した急行の席についたのだが、ちょうど発車までの時刻に、珍しい列車が大阪に到着することを事前に知っていた。それは新潟発の寝台特急「つるぎ」で、どうしても見たかったので、急いで戻ってくると言って兄と到着ホームに向かった。

無事に特急の到着を見ることができてご満悦だったが、急行の発車時刻が迫っており慌てて戻ったのだが、人混みに阻まれて間に合わず、列車は目の前で発車してしまった。

あろうことか両親はそのまま行ってしまったらしく、ホームに人影はない。兄と二人呆然としてしまった。

なにせすぐ戻ると言って出ていったものだから、お金はおろか何も荷物は持っていない。家に帰ることもできないのだ。兄は絶望で半泣きになっていて頼りにならない(ふたりとも小学生なので無理もないが)

どうしたものかと思っていると、隣のホームに同じ方向へ行く新潟行きの特急が停車していて、まもなくの発車と言っている。直感でこの特急は急行を追い抜くと思い、とっさに乗車することにした。

兄は渋っていたが、このまま大阪にいてもどうしようもない。とにかく急行に追いつくのだと説得して特急に乗り込んだ。

座席に着くわけにもいかず、デッキのゴミ箱の上に腰掛けていると、新大阪、京都と進んでいく。

まもなく社内検札が来たので慌ててトイレに隠れ、やり過ごしたあとは少し慣れてきて、ゴミ箱の上からとはいえ、車窓を眺める余裕が出てきた。(よく考えたら無賃乗車だったのだが、時効としてご勘弁いただきたい)

忘れもしない湖西線安曇川駅で見覚えのある列車を追い抜いたのを見て、急行に追いついたことを確信し、ようやく落ち着いて、次の停車駅の敦賀で下車した。

しばらくして急行が到着、座席に行くと両親は焦った様子もなく駅弁

を食べていた。やってきた我々を見て父は、「おっ、来たか」と言い、「食べるか」と差し出した弁当にはほとんどおかずが残っていなかったことを鮮明に覚えている。

その後は無事に旅を続け、武生から越前岬などを回り、海鮮などを食べた思うが、そのあたりはよく覚えていない

その時は再開できた喜びで何も思わなかったが、後になってよく考えると、子供が帰ってこないまま発車してしまった急行にそのまま乗り続けていた両親は、なかなかの大物だと思う。結果的にはそのおかげで再会できたわけだが・・・。

後年、あの時もし戻ってきなかったらどうするつもりだったのかと聞いたことがあるが、「お前たちなら戻ってくるだろうと思っていた」としか言われなかった。

四国遍路 5_3

3日目

この宿は朝食が6時と決まっているらしく、朝は5:30に起床。朝は早いが遍路中は早く寝るためか目覚ましが鳴る前に目が覚めてしまう。今日の行程は多少短いのでゆっくり出発しようと思っていたが、他の遍路はすでに出立の準備をしており、自分も遅れてはならじ、と7時には出発してしまった。

下ノ加江川を渡り国道を歩いていく。ほどなく太平洋に面した高台に出るが、今日も天気が良く、相変わらず太平洋は波が豪快だ。飽きることなく海を見ながら歩いていく。

前方にはこれから歩く予定の足摺方面が遠望できる。久百々(くもも)の集落を越えると歩道がなくなり歩きにくくなる。国道だけあって朝早くから結構な交通量で気を使うが、後で地図をよく見ると国道を避けて遍路道がいくつかあり、ことごとく入り損ねたらしい。

やがてまたまたサーファーの車が増えてきて大岐海岸に到着する。さすが太平洋、ここも有名なスポットのようで、サーファーが多いのは昨日の入野海岸と同じだ。

大岐海岸

道はここで「はまみち」と「おかみち」の2つに分かれる。「はまみち」は文字通り海岸沿いに進む道で、距離も短いのでこちらを通りたかったが、浜にかかっている木橋が満ち潮で沈んでしまっている。「はまみち」を歩く遍路は、裸足になって水の中を歩くのを楽しんでいるようだが、靴を脱いだり履いたり足を拭いたりが面倒なので、引き続き変哲もない国道を歩く「おかみち」を進んでいく。

海岸の尽きる辺りから遍路道があり海岸沿いに道を歩いていき、すぐに国道に合流するが、ここまで休憩するところが全くない。しばらく歩いたところで小学校があり、校門横の花壇の縁に腰掛けて小休止。

ここから旧道を以布利の集落へと下っていく。趣のある町に入ると港の近くにきれいなトイレと大きな休憩所があったので改めて大休止する。

休憩は、単にザックをおろして休むだけの小休止と、靴下まで脱いでくつろぐ大休止とがある(自分が勝手に決めた)。マメが出来るのを防ぐために靴下まで脱いで足を乾かすことは必要だが、これをやれるところはこのような休憩所しかないので、1日にそう何度もやれるものではない。だから余計に大休止は気持ちの良いものだ。

ゆっくり休んだあと道中に戻るが、遍路道は港を越えたあと海岸線に出る。明確な道はなく流木などを避けながら波打ち際の砂浜を歩いて行き、この先は磯しかないのではないか、と思われる辺りから山の方に小さな小径があり、ここを上っていくらしい。

これでも遍路道

古の遍路道というのは海とか山ばかりだったわけで、全行程が大体こんなワイルドな道だったのかと思うと、今の遍路道というのは楽なものなのだなと思う。

汗だくになって山道を登りきると県道に出る。ここは足摺半島の付け根にあたり、ここから東回りで海沿いに進んでいくことになる。主に県道を歩くがところどころ遍路道が存在する。

道としては県道の方がフラットで楽なのだが、「へんろみち」と書かれた手書きの看板を見るとつい足がそちらに向かう。

途中の窪津では鰹節工場があり、とてもいい匂いがする。いわしを天日干ししていて、誰もいないので1匹頂戴したく手を伸ばしかけるが、罰当たりなことだと思いとどまる。

窪津の集落を過ぎると遍路道はつづら折れの急な坂を上って行く。午後の日差しが容赦なく照り付けるのは連日同様で、晴天はありがたい反面、体力的にはきつい。それにしても海の色がきれいだ。沿岸は「真っ青」という表現がぴったりで、沖の方は黒ずんでいてこれが「黒潮」の由来なのかと思う。豪快な波も合わせていつまで眺めていても飽きない。

黒潮の由来の黒い海

津呂の集落には遍路小屋があり、ここでも靴を脱いで大休止。管理していると思しきおじさんが入ってきたので世間話をする。ここまできたら今日の目的地の足摺はもうすぐ・・・と思うのは昨日の真念庵のときと同じで、やはりなかなか到着しない。

津呂の遍路小屋

それでも標識の数字は見る度に減っていき、最後の遍路道を抜けるといきなり観光客だらけになり、38番金剛福寺に到着した。時刻は13:40。

一礼して山門をくぐり、久しぶりの参拝と納経を行う。札所間最長の約90キロを無事に歩き通すことが出来て感無量だ。

納経を済ませた後はゆっくり休もうと思ったがベンチが見当たらない。ここはやはり観光地なので、自分のような一部の歩き遍路は完全に浮いた存在のようだ。長距離をようようたどり着いたのに冷たい仕打ちだと思ったが、一般の観光客はあまりゆっくりしないので必要ないのかもしれない。やはり札所は辺鄙なところの方が良い。

わりと早く着いてしまったので宿に入るにはまだ早い。そこで白衣を脱ぎ菅笠を手に持ち、観光客モードになって展望台に向かうことにする。

足摺岬はそれこそ20年ぶりくらいで、多くの観光客に混じりながら激しい断崖を眺める。海はとてもきれいで、そういえば前に来た時にここで大きな海がめを見たことを思い出し、感慨に耽ける。

20年ぶりの足摺岬

灯台弘法大師由来の七不思議などを見た後、良い時間になったので本日の宿Aに向かう。

海に面した部屋は眺めが良いが、窓の外すぐに道があり観光客が多数闊歩しているので、うっかりカーテンが開けられない。時々カーテンの隙間からそっと夕暮れの海を眺めることにする。

風呂は広々として気持ちよいし、夕食はここも海の幸が豊富で大変に美味。今回もいい宿に当たったと思ったが、客は遍路より一般客が多いらしく、夜遅くまで大声の話し声やバタバタとした物音で何度も起こされる羽目になってしまった。遍路宿では考えられないことだが・・・

本日の歩行は約25キロ、38500歩であった。

どうでもいいこと

どうでもいいことがやたら気になってしまう。
車を運転していると、ちょっとマナーが悪い車にイラッとくるし、赤信号に2回引っかかっただけでもイラッとくることがある。

イラッとくることだけではなく、些細なことが目に入ってしかたがない。この信号機はまだLEDではないな、とか、カラスの鳴き声がいつもとちょっと違うとか、川の水の量が少ないなとか、挙げだしたらキリがない。

以前にも書いたが、常に何かに反応したり頭が何かを考えていたりして、その時はいいが夕方には脳が疲労してしまっているのを自覚する。

ところが、肝心なときにこの頭が働かないことがある。

昨日も風呂に湯を張っていて、終わったとアナウンスがあったので入りにいくと、栓をするのを忘れて湯船は空っぽ。実はこれ、つい先月もやったところで、次回は気をつけねばと自分に言い聞かせたところだったのだ。

さすがに自分自身に腹が立って、くだらないことにいちいち反応する暇があったら肝心なことくらいきちんとやれ、と声に出して言ってしまい、自分へのバツとして風呂には浸からずシャワーだけにした(浸からないと風呂に入った気がしないので、シャワーだけというのはけっこう辛い)。

だいたい、いつも気になるようなことは、ほとんど自分に関係の無いことばかり。見かけた車のマナーが悪くても、自分には全く影響がないし、カラスの鳴き声なんかホントどうでもいい。なのに、自分自身の行動がこの体たらく。

何かを考えていたら肝心なことがお留守になる。人間の頭はシングルタスクで、同時に複数のことは考えられないらしい。後から思い返せば、湯を張っているときにも別のことに気を取られていたような気がする。

先日など、ゴミを出すのをよく忘れてしまうので、わざわざ玄関を出たところにゴミの袋を置いていたのに、それを避けて出かけてしまった。自分の間抜けさ加減に笑ってしまったが、どうも視野の狭さも原因のようだ。

それにしてもひどすぎる。歳とともに加速しているようにも感じる。

頭の仕組みって、一体どうなっているのだろうか。脳科学の本をよく読んだりするけど、くだらないことばかり考えるのに肝心のところでしくじってしまうというメカニズムについては見当たらなかった。

四国遍路 5_2

2日目、6:00起床。
窓から海を見ると昨日とはうって変わって穏やかになっている。程なく岬の向こうから太陽が昇ってきて、今日もいい天気だ。6:30朝食、準備して7:00出発というのはいつものパターン。

うってかわって穏やかな太平洋

海沿いに国道を歩いているとほどなく通夜堂があり、そこから大竹まこと似のおじさんに寄っていけと呼ばれる。休むには早いけど・・・と思いながら入っていくと囲炉裏と炭があり、いきなり「火を熾してくれ」と言われた。

お接待を受けるかと思っていたので面食らったが、火を熾すのは得意なのでそこら辺の道具を使って盛大に炭を熾すと、今度は「なかなかやるな」と感心されてしまった。

いろりと巨大なヤカン

落ち着いてよく見ると通夜堂には違いないが、隣の部屋には木魚や位牌などがあり、どうも大師堂らしく、大竹まこと似のおじさんは住職みたいだ(後で地図を見ると「土佐東寺大師堂」となっていた)。

この住職は盛大に炎をあげる炭の上に巨大なヤカンをおいて湯を沸かしだしたが、何せ巨大なのでいっかな沸く気配がない。その間にいろいろな話を聞いたが、なかなか興味深いものだった。

曰く、遍路というものは回った回数など自慢するものではない。死に装束(白衣)を着て自分の墓(金剛杖のことで、卒塔婆を型取ったものだとか)を持って歩くのは死出の旅なのだ。
曰く、4回目からは逆打ちをするが筋、そこまでいくと「死に損ない」・・・逆打ちの順路をたどると「し(死)」の文字となる。
曰く、何回も回る体力があるのなら、社会のために働くべき。
等々。

なかなか興味深いお話ではあったが、一向に湯が沸く気配がないので、そろそろ辞することにする。住職はせっかく火を熾してくれたのだからコーヒーを飲んで行けと言ってくれたが、待っていたらいつになったら出発できるか分からない。

国道をしばらく歩いていたら、次第にサーファーが増えてきて入野海岸に出る。道の駅もあり辺りはサーファーが多い。なぜか海岸に馬がいると思ったら競走馬の厩舎まである。砂浜はちょうどいい練習場なのだろう。

砂浜に馬

橋を渡って入野松原に入っていく。昔囚人が植えたという木々の間を歩いていくが、砂浜沿いに歩いていくのは気持ちがよい。松原を抜けると広々とした運動公園のようなところに出、川を渡るといきなりけっこうな上り道になる。

ここからまた延々とアスファルトになるが、国道を離れたので車の交通量はぐっと減ってありがたい。やがて道は整備された農免道路に入り相変わらずアップダウンが続き、車で走ると気持ち良さそうなまっすぐの道も、歩くとしんどいだけである。

特筆すべきことも休むこところもなく延々と歩き続け、11:30頃ようやく四万十川沿岸にたどり着く。四万十川は今や有名になってしまったが、久々に見る大河は相変わらず雄大である。

川の土手にある東屋に入り、飴などを舐めて一服する。四万十川下流の橋である長大な四万十大橋を通って対岸に渡ると、今度は土佐清水へ通じる国道321号線に入っていく。

休憩した東屋。なくしたバンダナが見える

しばらく川沿いに歩いていたがやがて川から離れ、地図によるとそのあたりに数件の食堂があるらしい。情報が古いのでどうかと思っていたが、最初のうどん屋は健在。ただ、やたら客が多かったので通過、次の食堂は店じまい。最後の喫茶店に望みをつなぐと営業中だったので、やや古びた感のある建物に入る。

メニューはありふれたものだったが、こういうときの常道でカツ丼を注文。どんな食堂でもカツ丼は大体外れがないものだが、ここのものはタマネギ丼かと思うくらいタマネギだらけで、最初はカツ丼に見えなかった。

再び国道に戻りしばらく行くと、右手の丘の中腹に「大文字」がある。京都にあるアレと同じだが、戦国時代に応仁の乱で京都から逃れてきた貴族の一条教房が、中村に京都を模した町を築いたときに京都をしのんで大文字も作ったのだそうだ。

中村の大文字

大文字を横目に見ながら進むと、国道は次第に山に入っていく。ここで何か足りないと思ったら、代えのバンダナにしていた手ぬぐいがない。どうも四万十川の東屋で乾かしていて忘れたらしい。2日続けての失くし物に我ながらゲンナリする。

道は上り一方となり、気分も足取りも重く歩いて行き、やがて1.6キロの長大な新伊豆田トンネルに入る。入ってすぐ彼方にトンネル出口が小さく見えるが意外と近く見え、あそこまで1.6キロもあるのかと思う。

排気ガスが充満する中タオルを口に当てながら歩いていくが、近くに見える出口が一向に近づかない。結局通過するのに20分かかったので時速は4.8キロか、などと頭で計算しながら道を下っていくと、ドライブインがあったので休憩。

実はこの先のコースによっては明後日ここまで打ち戻ってくることになる。というのは、38番札所は足摺半島の先端にあり、その次の39番へ最大の打戻しをすることになり、ここがその分岐点となるのだ。

その分岐点に四国遍路の中興の祖と呼ばれる真念が建てた真念庵がある。歩き遍路はぜひ立ち寄りたいと書いてあるので打戻りの時に寄ろうかと思っていたが、まだ時間に余裕があるし、明後日のコースに選択肢を設ける意味もあるので先に寄っていこうと考え直した。

分岐道を入り町中を少し歩いた後、山の中腹にある真念庵へ上って行く。庵の前には札所の本尊88対の石仏が並び、信仰の厚さを今に伝えている。

真念庵の石仏

国道に戻ると今日の目的地、下ノ加江までは5キロくらいだ。だが例によってこの5キロが実に長い。すっかり痛くなってきた脚を引きずりながら歩いていくが、道に沿って流れる下ノ加江川のきれいなこと。水が透明で大きな魚が泳いでいるのが見え、西日を反射する川面はとても美しい。

ようやく町への分岐をまがりしばらくして本日の宿Aに到着。ここは珍しくおじさんとその息子さんが切り盛りしている。洗濯機は懐かしい2槽式だったが、風呂も食事も申し分なかった。打戻りのため明後日もう一度この宿に泊まることになるのだが、良いところなので安心する。
21:00就寝。

本日の歩行は44,500歩、この日も30キロオーバーだった。

四国遍路 5_1

某年9月19日

7月に37番岩本寺を打ったおかげで、9月にできた5連休を全て使えば長かった土佐を打ち終えることが出来るのだが、前後に休みを取ることが出来なかったのでけっこうきついスケジュールとなる。

行程は考えたものの実行に移すかどうか迷っているうちに、夜行バスのチケット販売の期日が始まってしまった。連休はのんびり過ごすか、と考えた数日後、どうせ連休ですぐに満席だろうと何気なくネットの「発車オーライネット」を見てみると、行き帰りともにまだ席があるではないか。

反射的にバスの予約をしてしまったので出かけざるを得なくなってしまった。引き続き各地の宿を予約し準備完了。

9月18日、仕事から家に帰ると風呂に入り、支度してあった荷物を背負い、杖を持って疾風の如く家を出る。

今回の開始は前回の終了地点、38番岩本寺を擁する窪川で、当初名古屋から高知へ行き、そこから鉄道で窪川に向かうつもりだったが、調べてみると関西から宿毛行きという夜行バスを発見、途中窪川にも6時という好都合な時間に止まることが分かり、京都まで新幹線で行くことにした。やはりいろいろと調べると何かしら良い案に当たるものだ。

20:20京都着。バスは八条口から出発とのことだが場所がよく分からない。うろついてようやくたどり着いた出発場所には、今までみたいに立派な待合室があるわけではなく停留所があるだけ。

付近でウロウロしながら待つことになり、これなら始発にこだわらず大阪から乗ればよかったと、ようやく到着したバスに乗り込むと、臨時で3台に増便したためか車両は一般の観光用みたいで、席は4列でトイレもないとのこと。二重にがっかりし、満員のバスで座席隣のおっさんと密着しながら、21:00定刻に「しまんとブルーライナー」は出発。

それでも夜行バスには慣れてしまったのかそれなりに眠り、朝6時に前回終了場所の窪川駅に到着。この駅には立派なトイレがあることは分かっていたのでそこで準備し、充分にストレッチした後出発した。2ヶ月ぶりの遍路の始まりである。

天気はいいはずだが窪川はわりと高地にあるのか、町にモヤがかかっていてなんとなく薄暗い。そんな中を国道56号線に沿って進むが、こんな時間でも幹線道路だけあってすでに車が多い。

もやのかかった窪川

窮屈な姿勢で一晩寝たため、しばらく身体が本調子ではなかったが、1時間も歩くと次第に脚も慣れてきた。モヤも晴れてきて太陽が顔を出すとテンションが上がる。

小さい峠を越えると国道を逸れて遍路道に入る。突き当りにはごみ焼却場があるが、歴史の古い遍路道は看板の指示に従って扉を入り、焼却場の敷地の中を突っ切って山道に入って行く。

焼却場の中のへんろ道

道はいきなり石だらけの過酷なもので、結構な標高から下り一辺倒。特に国道のトンネルの上を越えたあとはかなり荒れてエグイ道で、早速悪路の洗礼を受ける。ようよう国道に出てバス停のベンチで小休止し、朝食がてらおにぎりをほおばる。

荒れたへんろ道

ここからはずっと国道で、山道のときはアスファルトが良いと思っていたが、こうも続くと山道が恋しくなる。道にめりはりがなく自分がどのあたりまで来たかがよくつかめない。車も多くてうるさく、日が高くなって気温が上がると汗も噴き出してくる。

体力も一気に減っていき、修行っぽくなってきたなと思っていると遍路小屋を発見、早速入って小休止。チョコレートバーを食べて元気を回復して出発し、引き続き延々と国道を歩く。

やがて右から土佐くろしお鉄道の線路が近づいてくると、伊与喜で国道を離れて遍路みちへ。この先の熊井の集落には明治時代に出来た旧道トンネルがある。熊井トンネルというこの隧道は総レンガ造りで、当時子供にレンガ1個一銭のお駄賃で運ばせて作ったものらしい。入ってみるとさすがに相当な年代もので歴史を感じる。

熊井トンネル

トンネルを出たところでコピーしていた地図を紛失したことに気づく。カメラを出した時などに落としたみたいだが、また物をなくしたと落ち込む反面、今日くらいは地図に頼らず行き当たりばったりで進んでみようという気にもなる。

昼前に土佐佐賀の町に入り、町中に「むうん」という変わった名の食堂を発見。入ってみると名前に反して和風のつくりで、から揚げ定食を頼むとカツオのたたきも付いてきた。いずれも美味。初日からまともな昼食にありつけたことを幸運に思いながら佐賀の町を抜けると、ここから太平洋に沿って進むことになる。

行き過ぎたばかりの台風の影響か太平洋の波はすさまじく、かなり高いところから見ていてもなかなかの迫力である。このあたりは土佐西南大規模公園という文字通り広大な公園になっていて気持ち良さそうなところだが、先を急ぐことにする。

太平洋の荒波

波の音をバックに歩いていくのは気持ちいいものだが、今日は快晴で午後の日差しが容赦なく照りつけ体力を奪って行く。豪快な波もずっと見ていると飽きてくるし、身体もバテ気味になってくる。

今日は身体が慣れていないうちから30キロ歩くのだから無理もないが、視線がうつむきがちになっていく。それでも止まらずに歩いて行くとゴールも近づくわけで、やがて井の岬を貫くトンネルを抜けると今日の目的地の大方に入る。15時30分、本日の宿であるホテルUに到着。

ここはホテルというだけあって、各部屋にベッドと風呂が付いている。純粋な遍路宿ではなさそうだがゆっくり出来そうだと部屋に入ると、窓の外はいきなり豪快な太平洋で驚いた。かつてこんなに海の見晴らしのいい部屋に泊まったことがあるだろうか。風呂も広々とした石造りで気持ちよかったし、食事も海のもの中心で旨く、幸先の良いことだと思う。

ホテルの窓からの太平洋

波の音を枕に就寝したのは21時。電気を切ったとたん意識がなかった。

この日の歩行は43300歩、30キロオーバーの距離だった。