OSA日記

旅と食と健康とメンタルと

四国遍路 7_5

5月4日

5日目

宿坊だけに朝からお勤めがあるということで、6時に本堂に入る。ここに泊まる前から、「仙遊寺の宿坊に泊まる」というと意味ありげにニヤリとされることがあり、理由を聞くと、住職のお説教が長くて1時間半以上あるという。そんなに長いと出立時刻に影響がありそうだが、今日は明日の難所を控えて距離が短いので、多少遅くなってもいいと思っていた。

お坊さんが揃うとお経が始まり、終わると住職がにこやかに話を始めた。主に俗世間の話で、聞く方もわかりやすく興味を持てる内容だった。時間も30分程度だったので、随分短くなったらしい。住職はとても気さくな人で、1000年以上前に作られた国宝級の本尊(千手観音)も気軽に「写真撮っていいですよ、本尊なんて隠すものでもない」と言ってくれたので、ちょうど持っていたカメラにおさめることが出来た。

仙游寺の御本尊

朝食はお粥をメインとしたもので、身体に良さそうだった。食事を終え離れに戻る時に、中庭に例のシェパードが放されておりちょっとビビったが、檻から出ると人なつこそうな犬で、入り口までフレンドリーについてきて一言も吠えなかった。

宿坊の部屋

7時30分出発。昨日の急激な登りを今度は下ることになるが、昨日と打って変わっていい天気で足取りも軽やかに下っていく。山門を出て車道に出るが、すぐに遍路道へと別れさらに下っていく。これが石段に負けず劣らず急で、五郎兵衛坂というらしい。調子にのってヒザを痛めないように慎重にジグを切って下っていく。

五郎兵衛坂を下っていく

下り切るといつものような田園地帯を進んでいく。振り返ると先ほど下ってきた山があり、山頂近くに建物が眺められる。下ってみるとあんな所から来たのか、と驚くことしばしばである。

予讃本線の線路を渡りしばらく行くと、59番国分寺に到着。国分寺は各国に建立されたので四国には4つある。いずれも札所で、今回で3カ所目。讃岐にもう1カ所あるはずだ。

今日は時間がたっぷりあるので、ベンチに座ってゆっくり休憩する。ここには握手修行大師という像があり、握手するように手を突き出した大師像である。握手しながらお願い事をするとかなうとのことだが、「お大師様は忙しいので、願い事は一つで」などと書かれている。手を握りながら今回の道中の無事をお願いした。

握手修行大師

ゆっくり休憩してから出発。地図を見るからに後の行程は楽しくなさそうだ。旧道をから交通量の多い国道を延々と歩き、今度はアップダウンの多い高速道路の側道や古い町並みなどをずっと歩く。休憩する場所も1カ所くらいしかなく、当然食事するような店もない。

地図にスーパーの記載があったので期待していたが、雑貨屋に毛の生えたようなもので、結局昼食は菓子パンとタルトだった。今日は距離が短いうえ、札所も1カ所で他に休めそうな所も見あたらないのでかなり早く着いてしまうことが予想されたが、案の定1時台には着いてしまいそうな感じになってきた。

田んぼのあぜ道で休んだり、目的地である丹原の町でスーパーを発見したので寄ったりして時間をつぶし、それでも本日の宿泊地であるS旅館に着いたのは午後2時だった。

S旅館は民家に毛が生えたような作りだったがやはり遍路宿で、こんな時間に着いたにも関わらずすでに先客もおり、女将さんも大変愛想良く迎えてくれる。洗濯は接待でやってくれるし、ほどなく風呂の準備はできるし、とてもいい宿であった。

S旅館の部屋

先客はO屋でも仙遊寺でも同じだった脚の速いおじさんで、食事の時に聞いたら1時過ぎに宿に入ったらしい。食事は焼きたてのサンマが中心のヘルシーで美味なものだった。明日はみな難所に挑むためさまざま情報交換をし、早々に部屋に戻って休む。

本日の歩行は36,500歩、22.1キロで、今行程ではもっとも短かった。だから話も短いわけだ。

路線バスの旅

路線バスの旅といっても、一部バスに乗ったに過ぎないので、ちょっと大仰なタイトルにかもしれない。強いて言えば「路線バスも使ったちょい旅」のほうがいいかも。

ちょっと時間が空いた時にはふらっとどこかへ出かけたいのだが、この酷暑の中歩く気にはなれない。かと言ってそこら辺の鉄道はだいたい乗ってしまい、新鮮味がない。
未乗路線も無くはないのだが、だいたい盲腸線(終点がどの路線にも接続していないので、引き返すしかない線)で、ちょっと食指が動かない。

毎年会社の健康診断があり、病院が指定なのでわざわざ会社の近くまで出かけることになるがすぐに終わり、その後は予定がない。昨年も午前中早々に終わったので、乗ったことがなかった近鉄生駒線田原本線でふらっと旅をして結構楽しかった。

今年もと思いいろいろ考えたが、良いパターンが見つからない。近隣で未乗線といえば、近鉄けいはんな線だが、終点から先に乗り継ぐ先がない。

そこで考えを変えて、ここから路線バスで行けばいいのだと思いついた。昔は時刻表しか情報がなく、バスの時刻など調べるのは大変だったが、今はネットでいくらでも調べられる。調べた結果ちょっとしたコースを思いつき、実行することにした。

健康診断が終わったあと近鉄けいはんな線に乗って東へ。けいはんな線は大阪地下鉄中央線と接続していて、路線自体はおおまかには近鉄奈良線と被っている。新石切から長大なトンネルで生駒に着き、そこからが未乗区間。トンネルや切通しを通り、高架になっている終点学研奈良登美ヶ丘駅に到着。

学研奈良登美ヶ丘駅

ここからは各方面へバスが出ているが、今回はJR片町線祝園(ほうその)駅行きに乗る。バスは高台から下っていき、しばらく走ると光台と精華台という二つの新興住宅地に入る。きれいな道並みで、けっこう人も乗ってくる。

精華台に入ると、島津製作所や京セラなど大企業の研究所が並んでいて、反対側には国立国会図書館関西館もある。そんなのを眺めているうちに、古墳の横を通って終点の祝園駅へ。

ここはJR片町線近鉄京都線共同駅だが、JRはこの時間は1時間に1本くらいしかない。駅前のショッピングセンターで時間をつぶし、塚口行き区間快速に乗る。
片町線は通勤でも使っているので新鮮味がなく、居眠りしてしまい、目が覚めると下車駅の一つ前だった。

祝園駅

危ない危ないと思いつつ、河内磐船駅で下車。ここは京阪交野線との接続駅で、案内でも京阪乗り換えを言うが、駅間は500mくらい離れていて、猛暑の中汗をかきながら京阪河内森駅へ。

久しぶりの交野線だが、車窓は全く特徴がなく人も多く、終点の枚方まではただの移動だった。枚方からは本線の特急で天満橋中之島線に乗り換えて渡辺橋まで行って、堂島地下街を通って梅田まで。ここでちょい旅は終了。

路線自体は特に魅力はないが、乗ったことがない線、久しぶりの線はやはり面白い。

味をしめたので、後日暇な休日に再び思い立って、路線バスを使ったちょい旅に出た。
今回はJRで天王寺まで行き、ここが出発点。近鉄大阪阿部野橋駅から南大阪線に乗る。南大阪線橿原神宮までの路線だが、途中の古市から分かれる長野線に直通する列車が結構な頻度で出ている。で、この長野線には乗ったことがない。

今回はこの河内長野行きに乗ることにする。河内天美手前までは高架で、準急はすべて通過して快走。途中で観光列車の「青の交響曲」とすれ違う。
藤井寺から各駅停車になり、道明寺で乗ったことがある道明寺線と合流し、古市で後ろの2両を切り離し、初めて乗る長野線へ入っていく。

2駅先の富田林までは複線だが、そこから単線。少しのどかな雰囲気になり、やがて終点の河内長野。ここは南海との共同駅だが、あちらは本線なので立派なホームがある。

ここからバスに乗ることにする。目的の光明池行きは1時間に1本。時間を合わせてきたので、駅前をウロウロしている間にバスが到着。

バスは旧街道の細くくねった道を走っていき、こまめに乗客が降りていく。バイパスを横切り、味のある町を走っていくうちに乗客は減っていき、国分峠で乗っていた子どもたちが下車してとうとう自分ひとりになってしまった。

河内長野から光明池までは、遠回りながら鉄道があるので、通しで乗る人はそうそういないのかもしれない。相変わらず旧道をくねくねと走り、遠回りした住宅街からは少しずつ乗客があり、1時間くらいで終点光明池駅に到着。

ここは泉北高速鉄道の駅で、できれば終点の和泉中央に行きたかったが、なぜかそちら行きのバスはなかった。
いかにも新興住宅地の駅で、ショッピングセンターなどがあったが、早々に駅に行き、せっかくなので一駅先の終点和泉中央駅へ。

ここも規模は大きいものの、町並みは同じようなものであまり面白くはない。ショッピングセンター内の吉野家で昼食を取り、直通している南海のなんば行き区間急行に乗る。この列車は南海の古い車両で、ホームの向かいには先日デビューした新型の9300系が入線してきた。

一瞬新型に乗ろうかと思ったが、特に車両が好きなわけでもないのでそのまま出発。泉北高速は果てしなく直線の高架で、なかなかのスピードで快走する。深井をすぎるとトンネルに入り、出たところが南海との接続駅の中百舌鳥。急行なので通過し、堺東、天下茶屋新今宮と停車して終点のなんばへ。

ここでちょい旅は終了。少し戎橋筋を歩いてみるが、観光客でごった返していて、暑いのもあって早々に地下鉄に乗って帰る。

このようなちょい旅はすぐ終わるので、帰宅しても15時くらい。多少物足りないくらいなのが良いのかもしれない。

路線バスを選択肢に入れることで、また色々思いつきそうな気がする。

四国遍路 7_4

5月3日

 

4日目

私と同じようにJRで戻ってきた遍路は結構いたみたいで、当初この旅館の朝食は7時だったが、それでは北条発7:12の電車に間に合わないということで、6時半になった。本数が少ないので、この電車を逃すと次は8時前になってしまう。朝食もお釜でご飯が出てきて美味だった。

7時前に宿を出発、電車で菊間まで移動してそこから出発。天気はあまりよろしくなく、今日の予報は降水確率50%。空はどんよりと低い。

電車で移動

時々旧道には入るが、基本は国道に沿って北上していく。当然ながらいつも午前中は体力があって身体の調子もいいのだが、今日は特に快調で自分でも平均速度が速いのが分かる。脚の調子もすこぶる良い。

伊予大西を過ぎJRから離れると、やがて54番延命寺に到着。ここまで15キロくらいの距離を2時間半で着いたので、やはり速い。延命寺はとても雰囲気のいい寺で、納経所のおばさんも愛想がいい。ここには屋根付きの休憩所もあるので、雨が降っても大丈夫だろう。まだ天気はもっているが。

延命寺の休憩所

早く着いたが、調子のいいときに距離を稼ごうと、納経を済ませると早々に出立。遍路道は裏手の小高い丘を越えて集落に降りていく。

札所にいるときから太鼓のようなにぎやかな音が断続的に聞こえていたのだが、それがだんだん大きくなる。果たしてお祭りをやっていて、組体操のようなものや獅子舞が出ていて、人が集まっている。歩いていて何度か祭りに出会ったが、こういうこぢんまりした地元の祭りの雰囲気は悪くない。ただ、雰囲気が良いのはいいが、遍路道のど真ん中で祭りをやっているものだから、なかなか先に進めない。祭りを楽しみつつ、頃合いを計って人混みを抜け先に進む。

地元のお祭り

道は広大な霊園の中を通り、いきなり今治の町中に入る。次の札所は町のど真ん中にあるのだ。昼前に55番南光坊に到着。札所はほとんどが「○○寺」なのだが、2カ所だけそうでないところがあり、55番はそのうちの一つ。立派な山門には仁王像ではなく四天王(持国天増長天広目天多聞天)がまつられている。

ところが、立派な山門と本堂の間が駐車場というよく分からない作りで、山門をくぐったら駐車場の中を通り、道を渡って本堂に行かなければならない。88カ所もあれば札所の造りもいろいろだ。読経と納経を行う。納経所の人は愛想がよく、少しお話をする。

さて、昼である。今治は愛媛第2の町だし、駅前を通るし、間違いなく今日だけはまともな昼食にありつけると期待していた。ところが!今治駅は立派な高架駅なのだが、駅前には本当に何もない。駅前からいきなり住宅地と学校があるくらいで、こんな駅前見たことがない。道はどんどん細くなり、打ちひしがれながら歩いていく。やがて国道を渡るので、せめて国道沿いに何かないかと願ったが、あったのはコンビニだけで、自嘲気味におにぎりなどを購入する。

ここからはすぐに56番泰山寺に到着。ここにも屋根のついた休憩所があり、ベンチに腰を下ろして先程買ったおにぎりなを食べる。

今回の札所は石手寺以外どこもこぢんまりしていて雰囲気が好ましいところばかりだ。この寺も山門もなく、どこにでもあるような寺である。休憩しているととうとう雨が落ちてきたが、まだまだ小降りなので菅笠にカバーをかぶせただけで出発。

先を急ぐところだが、このすぐ裏に56番の奥の院龍泉寺があるので寄ってみる。ますますこぢんまりとした寺の横には「日本一小さい喫茶店」と書いたプレハブが建っていて、寺の境内にもテーブルと椅子がある。是非コーヒーでも飲んでいきたかったが、店主が3時にならないと戻らない、と貼り紙がしてあったので諦める。

日本一小さい喫茶店

少しずつ雨脚は強くなってきたが、雨具を出すほどではないのでそのまま歩いていく。やがて川に出て川沿いに歩いていくが、むかし旅人が川を渡った跡が残っていて、今でも渇水期に川を渡る遍路がいるそうだ。

橋を渡りしばらくすると遍路道に入り、やがて57番栄福寺に到着。ここはさらにこぢんまりしている上に工事をしていてひときわ狭く感じる。ただ、工事のおかげで納経所前にテントが貼られていて、ここでも屋根付きで休憩することが出来る。ここでも先達がいたので、立ち去るのを待って読経と納経。テントにあたる雨音が強くなったように感じたのでザックカバーを装着したが、外に出てみるとそれほどでもなかった。

栄福寺への道標

しばらく歩くと犬塚池という池があり、その畔から雰囲気のいい遍路道に入る。歩きやすく石仏も多く、とてもいい道だ。山や町を問わず遍路道を歩いていると当然だが石仏が多く、私は極力拝んでいくようにしていく。拝むと言っても目を閉じて手を合わせるだけだが、それだけで少しだけ身体が軽くなるような気がする。人目の多い町中ではそちらを向いて歩きながら拝むようにしているが、この道はやたら石仏があり、少々手間取ってしまった。

石仏の多い遍路道

本日の宿は久々の宿坊で、この先の57番札所になる。今日はここまで平坦な道だったが、この57番はかなり高台にあると聞いているので、覚悟を決めて歩いていく。

道はやがて車道に出るが、これがツヅラ折れの急坂で、息を切らせて登っていく。かなり登ったところに立派な山門がありこれが入り口だが、ここからの遍路道がかなり厳しい石段の連続となる。歯長峠のように坂が急でも距離が短ければ、と勇んで登っていくが、なかなか道は長くいつまで経っても石段が続く。息が続かず時々立ち止まって息を整えなければならないくらいだ。

仙遊寺へのきつい上り

途中には弘法大師が湧かせたというお加持水というのがあり、柄杓ですくっていただくが、疲れたていたというのもあってか甚だ美味。ここからはもう一踏ん張りで、ようやく57番仙遊寺に到着。裏口から入ったような感じだったが、今日はここに泊まるので降りなくていいという安堵感がある。納経を済ませると、雰囲気のいい庭から宿坊に入る。

宿坊はやはり一般の宿とは雰囲気が違うが、私は離れということで一旦外に出る。後から考えると離れと言うより一般住居の片隅のような感じで、洗面所には冷蔵庫や雑多なものがあり、「おばあさんと会うかもしれません」と言われたので寺の関係者が住んでいたのかもしれない。

それでも風呂は温泉で、しかも登ってきた甲斐あって展望はすばらしいし、夕食の精進料理は大変美味で珍しいものも多かったし、何より宿の人たちがとても親切で気持ちよい人ばかりで、宿坊はいいとつくづく思った。ただし、離れに出入りする度に、檻に入った巨大なシェパードに吠えられるのだけはいただけないが。

本日の歩行は42,000歩、26.0キロ。
結局宿に入ってから雨は本降りになったので、雨具は使わずに済んだ。まだまだツキはある。

四国遍路 7_3

5月2日

3日目

やはり4時過ぎには目が覚めてしまう。昨日買った食材を食べて準備。今日は今回で一番距離が長いので、早い目に出立する。

松山市の北側を西に向かって歩いていく。この辺りはむかし兄が住んでいたところで、南側の山の上に松山城が見えている。山頭火の終焉の地である一草庵の前を通り、道はやがて川に沿った遊歩道のようになる。そのまま国道に合流。今日は平日なので交通量も多く、対面から山のように学生が自転車でやってくる。さすがに大都市、誰も私などに見向きもしない。

山頭火終焉の地

交通量の激しい幹線道路をかなり歩き、ようやく市街地を出ると広々とした田園地帯になる。穏やかな景色にほっとしながら進んで行き、9時前に52番太山寺の一の門に到着。ただ、この寺はここからが長く、参道を通ってしばらく行くとようやく山門がある。石段を登って立派な山門をくぐっても道は続き、そのうち次第に急な坂になる。しばらく上ると右手に納経所があるが本堂はまだまだ先で、息が切れてきた頃長い階段を上って到着。

境内はのんびりした風景で、地元のお年寄りが集まって井戸端会議をしている。良い天気の中ゆっくり読経する。納経ははるかに下ったところなので、のんびりと休憩した後は同じ道を下っていく。納経を済ませ、元の道を戻っていく。一の門をくぐると平地になり、田園地帯を進む。

次の53番までは比較的近いので一気に行ってしまおうと歩いていると、公民館のようなところで黄色い服を着た人がたむろしており、一人のおじさんがこちらを見るやいなや、激しく手招きする。のぼりに「お接待」と書いてあったので、休憩にはちと早いと思ったがご厚意に甘えることにする。

愛想のいいおじさんが席に座らせてくれると、すぐに水羊羹と甘酒が出てきた。疲れに甘いものがしみ通るようだったが、もう少し後だったらうどんも茹でたのにね、と、昨日の坂本屋に続いてタイミングがよろしくない。
まあ、お接待の内容を期待すること自体間違いで、ここでお接待を受けられることは単純にうれしい。ちなみにここは和気というところで、札所が2カ所もあるのでお接待に力を入れているとのこと。

休憩させていただいた後は足取り軽く出発するが、すぐに53番円明寺に到着。ところが到着寸前に、恐怖の団体バスが今まさに到着しようとするところが見え、団体の後については大変なので、大急ぎで山門をくぐり、取るものとりあえず納経を先に済ませる。納経さえ済ませば何とかなるのでほっとしていたが、その間に本堂では大音響で読経が始まっており、背に腹はかえられず大師堂を先に参る。

こぢんまりとした円明寺

この先はしばらく札所がないので、ここでのんびりしていくことにする。団体さんは大師堂でも読経すると雪崩を打って出て行ってしまい、境内はあっというまに静寂を取り戻す。ここは1598年に納められた銅板の納札があり、最古のものだとか。

ちなみに納札は、例の衛門三郎が、自分が空海を探しているということを知らせるために、寺にお札を打ち付けたのが始まりとされている。かつてはここのように金属製や木製で、寺の柱に釘で打ち付けていたので、遍路は札所に参拝することを「打つ」というそうだ。今は建築物の損傷を避け持ち運びの利便性を考えて、紙製の納札納札箱に入れるようになっている。

10:30出発。しばらく町中を歩いて行くと久しぶりに海沿いに出る。ここは穏やかな瀬戸内海で、今までの荒々しい太平洋とは雰囲気がまるで違う。天気も良く海を眺めながら気持ちよく歩いていくが、写真を撮るのに立ち止まっていると、後ろから年配の男性に声をかけられた。しばらく世間話をした後おじさんは先行していったが、この人が速いのなんの、あっという間に豆粒のようになってしまった。やはりあの年代の人は足腰がしっかりしている。

穏やかな瀬戸内海

光洋台のあたりからは海から離れ、平凡な地方都市の郊外の光景となる。以前の宇和島近辺と似た雰囲気で、見所も休むところもない。ノンストップで歩いているので脚が痛くなってきたが、休むところが無い。バス停にもベンチすらなく、うつむき加減にひたすら歩くしかない。北条の町に入ってきても鄙びた感じの町並みにはそれらしいところもない。看板で「花遍路」などと大書しているが、その割に遍路に冷たいなと思いつつ、とうとう今日の宿であるO屋に到着してしまった。まだ昼である。

事前にこうなることは想定済みだった。今日の距離から考えると北条で泊まるには近すぎるのは分かっていたので、宿泊地はもう少し先に考えていたのだが、この先2件しかない宿のうち1件は廃業、もう1件はいくら電話しても出ない。松山から先しばらくは宿の配置がうまくいかず、スケジュールを立てるのに難儀した。結局、せっかくJR沿いに進むのだから、歩けるところ迄行って列車で北条に戻り、翌日はもう一度列車でそこまで行くことにした。目標は菊間である。

どうせ戻ってくるのだから荷物を置かせて貰おうと宿に入っていくと、食堂も兼ねているO屋には先ほどブチ抜かれたおじさんがジョッキでビールを飲んでいた。和風の旅館なのになぜか部屋はツインのベッドがある部屋に荷物を置き、少し休憩して身軽になってから出発。ちょうどおじさんも出発するところだったので、何となく同行することになった。

さすがに空荷になるとおじさんのペースについて行けるが、それにしてもこの人、荷物を背負ってよくこんなに速く歩けるものだと思ったら、どうもかなりのベテランらしく、四国はおろか東京から下関まで歩いたり、果てはヨーロッパの有名なサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路まで歩いたりしているそうだ。今回も東京から青森まで歩く予定だったのが、予定を変えて四国を歩いているとか。

ベテランと同行

道は海の近くにも関わらず峠を越えることになり、鎌大師というのがあるそうだが、歩くことと話すことに専念していてとうとう気づかなかった。かなり急坂だったがかなりのペースで上り、さらに速いペースで下る。

下ると浅海(あさなみ)の集落で、ここから海沿いに戻る。人と同行しているといろいろ話が出来て楽しい反面、景色を楽しむことが疎かになる。それでも歩きながら何枚か写真を撮ったりして、菊間までの道程を楽しむ。

結局3時前には菊間に着いてしまうが、ここは鬼瓦の有名なところで、至るところに瓦屋が巨大な鬼瓦を展示している。おじさんとは歩きながらあっさり分かれ、想定していたより1時間も早い列車に乗って北条に引き返す。やはり電車は速く、あっという間に北条に戻る。

菊間の鬼瓦

宿で洗濯・風呂を済ませ、名物の鯛飯に舌鼓を打ち、8時半頃には就寝。

本日の歩行は52,000歩、32キロで、今回最長だったが、北条近辺以外では思いの外疲れなかった。

四国遍路 7_2

5月1日

2日目。

いかに疲れていたとはいえ、昨夜は8時なんかに寝たものだから、目が覚めてみるとまだ3時台だった。

まだ起きても仕方ないので布団の中でうだうだしていたが、窓の外から結構激しく雨の降る音が聞こえ夢うつつで憂鬱になっていた。何せ今日は6つも札所を打つことになるのだが、雨の中での読経や納経は大変だからだ。
いっそ雨に打たれながらでも歩き続けた方がよほど気楽なのだが。・・・と、つらつら考えているうちに良い時間になったので布団から出て準備を始める。ふと窓の外を見ると、何のことはない、雨はやんでいて、激しい雨音と思っていたのは近くを流れる川の音だった。空はどんよりしているが、雨は夜中に降ったらしい。

6時に朝食。とりあえず雨が降っていないのは幸先がよいことだと、同宿の人たちと話しながら食事。6時半過ぎには出発。雨は降っていないものの、空はどんより曇っている。

このT庵のご主人は、宿を開くにあたってこの辺り一帯の土地を買ったとのことで、裏に自ら開いた遍路道があるという。奥さんに見送られながら出発し、せっかくなので教えて貰った道を上がって行くが、のっけからかなりな急登で若干後悔した。
ほどなく国道に合流。その頃から雲は薄くなってきて、今日は雨は大丈夫そうだ。5月1日は全国的にまとまった雨、とずっと報じていたので覚悟していたが、まだまだ晴れ男の神通力は衰えていないと見える。

道はやがて三坂峠へ。ここから鍋割坂といういにしえの遍路道を下っていく。かなり歴史のある道で、江戸時代には松山から高知へのメイン街道だったとのこと。石畳の重厚なところが随所にある。久万高原は標高500mくらいなので、この坂は下り一辺倒である。

鍋割坂の石畳



下りは膝にダメージがくるのだが、昨日で身体も慣れたらしく、問題なく下っていく。途中松山方面の展望もすばらしく、山腹には変な形だったが虹まで出現し、雨どころかこんな風景を眺めることが出来る幸運に感謝する。

虹が出た!

下り切った所に、元遍路宿の坂本屋がある。由緒正しい遍路宿だったらしいが今は閉まっており、土日のみ開けて近所の人がお接待をしているとのことをT庵のご主人から聞いていた。今日は土曜日なので期待していたが、まだ早いらしく閉まっている。

ここからはまだ下るが、道は次第に平坦となり田園風景の中を進んでいく。途中に網掛石というのがあり、岩肌に本当に網の目の後のような模様が付いた岩があり、隙間に小銭が挟んである。

網掛石

10時過ぎ、46番浄瑠璃寺に到着。向かいに長珍屋という遍路宿があるが、実はここはかなり前に友人たちと泊まったことがある。日帰りのつもりで遊びに来ていて遅くなったので急遽泊まろうということになり、あちこち電話して空いていたのがここで、当時は遍路宿というものを知らずに宿泊。翌日の朝食の時間を聞かれ、8時というと愕然とされた記憶があるが、今となってはよく分かる。懐かしく思いながら、当時は目もかけなかった浄瑠璃寺に入っていく。

とてもこぢんまりした札所で、木々に囲まれて良い雰囲気である。GW中で松山郊外ということもあり混んでいるかと思ったがそんなことはなく、ゆっくりと読経、納経を済ませる。一息ついて札所を後にするが、次まではわずか1キロ弱。歩きだしてすぐに47番八坂寺に到着。こんなに近いのは初回の徳島以来で、逆に落ち着かない。ここも46番と同じような規模で、判を押すように読経を繰り返す。

ここもすぐに出発。町中を歩いていくが、48番までの間に別格番外の文殊院があるので立ち寄る。この文殊院は遍路の元祖ともいうべき河野衛門三郎ゆかりの寺で、菩提寺でもある。もともと衛門三郎の屋敷だったとのことだ。

衛門三郎菩提所

ここで衛門三郎について少々。衛門三郎はここの豪農だったが、欲深く民の人望も薄い人物だった由。ある時門前にみずぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢しようとしたが、三郎は家人に命じて追い返した。この僧は翌日からも毎日現れるようになり、その度に追い返すことを繰り返すが、8日目、三郎は怒って僧の持っていた鉢を竹箒でたたき落とす。

鉢は8つに割れてしまい、僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師で、この年から8人いた三郎の子どもが毎年一人ずつ亡くなり、8年後には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気づき後悔する。

懺悔の気持ちから家屋敷を売払い家人とも分かれて一人で大師の後を追いかけるも、いつまで経っても会うことが出来ない。四国を20回まわったところで今度は逆に回ることにしたが、その途中阿波国焼山寺近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい、と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎再来」と書いて、左の手に握らせた。

翌年、伊予国の領主河野息利に長男が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。領主は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。

よく考えたら、托鉢に来たことを追い返されただけで子どもを全員亡くした上、自分も亡くなってしまうというのもどうかと思うが、衛門三郎が歩いて四国を回った元祖として名が残っているのは興味深い。大師が今も四国を回っておられ、一心に四国巡りをするうち、何れ何処かで大師に巡り会えるという信仰にもつながっているらしい。三郎が閏年の申年に逆打ちをして大師に巡り会えたので、閏年に逆打ちを行うと3倍のご利益があるという考えもあるとか。3倍の根拠がよく分からないが、何か旅行会社が考えそうなことではある。

文殊院は簡単に参拝し、早々に出発。そろそろ松山市街にも近づいてきたので食事出来るところはと探してみたが、例によって良いところが見つからず、仕方なくコンビニに寄って食料を補給。重信川を渡り高速の下をくぐって48番西林寺に到着。

昼時なので納経を済ませた後ベンチでおにぎりを食べていると、車で来た観光客らしきおっさんに「スタンプはないですか?」と聞かれた。意味が分からず「納経のことですか?」と聞き返したがそれも通じず、どうも88カ所のスタンプラリーでもあるように思っていたのだろうか。それにしてもなぜ途中の48番で聞かれたかはよく分からない。

ゆっくり休憩してから出発。この辺りから次第に市街地に入っていき、景色がつまらなくなる。民家の間を抜けたり伊予鉄道の線路を渡ったりしながら歩いていき、13時頃町中にある49番浄土寺に到着。本日すでに4つめの札所だが、どこもわりと空いているし団体もいないので助かる。ただ、短期間にたくさん回ると各札所の印象が残らない。

この辺りから交通量も増えるが、道に歩道もなく歩きにくいことおびただしい。中には白線すらないところがあり、車が来るとわざわざよけたりしないといけないので神経を使う。

町中の遍路道

まもなく2つの池に挟まれた50番繁多寺に到着。それにしてもだんだん読経するのがしんどくなってきた。今日だけで12回読経しなくてはいけないのだ。頻繁に休めるので身体は楽だが、やはり遍路は歩いている道中が良い。ここは境内が広々していて、ベンチも多くある。休憩しようとベンチに行くと、T庵で同宿の年配女性二人連れとばったり出会う。この人たちは今日帰らなければならないらしいが、今日は天気も良くなって良かったとしみじみ話す。

次は本日6つめの札所。今日はこれで終わりなので少々がんばって歩き、住宅街を抜け、へんろ橋という橋で石手川を渡ると51番石手寺に到着。先ほどの衛門三郎ゆかりの寺で人気があるらしく、ここだけは人でごった返している。入り口から山門まで屋根付きの回廊のようになっていて、左右には縁日のようにいろいろな店がある。山門をくぐって境内に。国宝の仁王門や三重塔などが良い雰囲気である。

納経を済ませ、回廊の出口にある店でじゃこカツを食べ、50番で会ったご婦人にお別れをし、松山の町中に入っていく。

道後へ下っていく

今日の宿は道後にとってある。道は次第に観光客でごった返していき、やがて道後温泉本館の裏に出た。今日も本館は長蛇の列だがそれを横目に見ながら通過し、アーケードを抜けた先にある「ビジネスホテルS」に投宿。さすがに大都市の真ん中なので、ひなびた遍路宿などなく、ビジネスホテルに予約していたのである。

部屋で一息つきコインランドリーで洗濯したあと、近くの椿の湯に入りに行く。やはり広々とした温泉は最高だ。ついでに夕食もと考えたがこの辺りは観光客向けのところしかないので、雰囲気だけ味わったあとコンビニで明日の朝食をともに仕入れ、部屋でわびしく食する。

本日の歩行は41,500歩、26.5キロの行程であった。これだけ回ると距離もそこそこになるものだ。

近隣旅ふたたび

神戸の西へ、再び近隣旅に出かけた。

勝手知ったる街と思っていても、いくらでもネタは見つかるものだ。以前から気になっていたところは、さらに西の須磨寺神戸在住の人は何を今さら、と思うかもしれないが、行ったことがないのだから仕方がない。有名なところでも行ったことがないなんて近くにも山のようにある。

梅雨の真っ只中だが雨が降っていなかったので、急に思い立って昼頃から出かける。だいたいどこかに行こうとすると計画をたて、気合いを入れて朝から出かけるものだが、このように突発的に思い立って出かけるのも悪くはない。

阪急電車から山陽電車と乗り継いで、須磨寺駅へ。この駅で降りるのも初めてで新鮮。
駅前からはやはり味のある商店街が続くが、長田神社ほど賑やかではない。それでもパン屋などをのぞきつつ歩き、程なく須磨寺に到着。

敷地は広く、思ったより立派な寺。このあたりは何といっても源平一の谷合戦の激戦地で、有名な熊谷直実平敦盛の像がある源平の庭が目を引く。
他にも敦盛公首洗い池とか、敦盛卿首塚とか、悲劇の主人公平敦盛に関するものが多い。

源平の庭

本堂を参り、三重の塔などを眺めつつ散策。今日はこの寺の青葉殿でコンサートがあるらしく、同じような年代の人が引っ切りなしに入っていく。

三重の塔

納経をしていただいて寺を出る。参道を引き返して駅へ。

次はさらに西へ。普通電車を乗り継いで塩屋駅で下車。塩屋は海と山が近く、細い路地と坂道が錯綜している街で、地図を見ながら気になっていたところ。

駅を出ても広場などなく、いきなり車など通れないような細い路地から始まる。有馬温泉とか小豆島にも似たような雰囲気で、歩き回るのはとても楽しい。

塩屋の入り組んだ通り

途中で小さなカレー屋があり入ってみるが、今までで一二を争うおいしさだった。満足して店を出て、ふたたび入り組んだ道を散策。

入り組んだ通り

名所らしい唯一のところが「旧グッゲンハイム邸」だが入ることはできず、外から眺めるだけだが、ここから線路を横切るところが結構絵になるところで、電車が来るのを待って写真を撮ったりする。

絵になる踏切(写真は今ひとつ)

小さな街なので、ほどなく駅に戻る。十分楽しんだので帰路につくが、せっかくなので三宮で下車して買い物などする。

行ったことがないところに行きたいという好奇心は子供のころからあるが、小さいときからの好みというのはいつまでたっても変わらないものだと実感した一日だった。

四国遍路 7_1

某年4月29日~30日

今年のGWは10連休というのが会社の年間スケジュールで発表されたのは随分前のことで、フルに使えば今回のみで伊予を打ち終えることが出来るなとほくそ笑んだものだった。
実際簡単に計画を立ててみると、体力的に横峰寺雲辺寺という難関を突破出来れば讃岐まで行く行程が作成できたのだが・・・。

転勤になり4月末で引っ越しすることになってしまい、なんとかGW前に特別休暇を取れたものの、予定は短縮せざるを得なかった。それでも7日間の計画をたてたが出発は引っ越しの翌日となり、大阪からの出発となり楽にはなったとはいえ、今回も夜行バスなので体力が若干心配だった。

担いでいく荷物

整理するとこう

4月29日夜、まとめていた荷物を背負い、笠と金剛杖を持って出発。家から駅まで徒歩5分、そこから大阪駅まで約20分と、随分楽になったものだ。大阪からはJRバスの「松山エクスプレス」で松山へ。3列シートの快適なバスの筈だったが、やはり引っ越しで結構体力を使ったのか熟睡とはほど遠い状態で、バスを降りたときは正直身体が重かった。

松山駅では30分の待ち合わせで、前回終了地である久万高原へ向かう落出行きのバスに乗り込む。この1時間あまりのバスの中では結構眠ったので、若干は体力が戻ったかもしれない。
1年前に打ち終えた久万高原のバスターミナルは立派な建物で、トイレもきれいなのでここで準備。CW-Xを装着し、靴紐を固く括り直して完了。

8:00久万高原出発。
去年打ち終えた44番まで久万の町並みを懐かしく思いながら歩いていくが、今回はどうも普段以上にザックが重く感じる。いつも軽量化には苦心するのだが、どうやってもこれ以上軽くならない。体力的な原因もあるかとは思うが、この辺りが限界なのかもしれない。

ほどなく44番大宝寺に到着。山門で拝んだ後、新しい行程に出発。ここからは小さな峠を越えることなるが、やはり結構きつい。身体がなまっているのか引っ越し疲れか知らないが、今回は前回のような「甘い見積もり」をしないように注意しなければならない。
ただ、体力的にはともかく、久々の遍路道は気持ちよいものだ。歩きながら朝食代わりのおにぎりを頬張りつつ、休憩なしで登っていき、やがて峠を越して下りへ。

車道との合流点に到着。しばらく車道の端を歩くと河合の集落に降りていく道が分岐している。河合は昔遍路で大層賑わったところだそうで、遍路宿もあったらしい。今では想像出来ないような小さな集落だが、そう思うと趣があるような気がする。

再び車道に出てしばらくすると、遍路道の案内があり田園風景の中を歩く。穏やかな風景の中を歩いていると石畳の本格的な遍路道となり、やがて上りが始まった。次の札所はかなり山深いところにあるのでこういう道は想定済みだが、やはり夜行明けの身体はまだまだ慣れていなく、息を切らしながら進んでいく。

それにしても、どうも普段より出だしが良くないような感じで、気合いが入らずテンションが上がらない。この先の道に緩急の選択肢があるが、楽な方にしようと考え始めていた。

初日から上りが続く

やがてくだんの分岐点に到着。案内を見ると急坂を登る八丁坂と、距離は長くなるが少し平坦な道に分かれている。ところが気持ちとは裏腹に、脚は勝手に八丁坂を登って行く。この先膝を痛めたり体調が悪くなったりするかもと思いながら、休憩もせずに一気に160mの標高差を駆け上がり、ようよう頂上に到着。

やれば出来るではないかと思いながら腰を下ろして休憩し、息を整える。その後は尾根道だが平坦なまま済む筈もなくアップダウンが続き、それでももはや想定済みなので気にせず進んでいく。途中には「行くかやめるか、迷ったときは行け!」という札を見つけ、選択肢が誤ってなかったと確信する。

札に励まされる

しばらく歩いたあと下りに入るが、道がザレ場になり滑りやすくなる。しばらくゆっくり下っていくと、下の方から札所らしい鐘の音が聞こえてくるが、音はすれどもなかなか姿が見えない。

やがて奇岩怪石が連なる行場に入り、有名な「せり割行場」に到着。これは巨大な岩が真二つに割れたもので、人がやっと通れるくらいの隙間に鎖がひかれている。手前の扉には鍵がかかっており、ここで修行したい人は寺で鍵を借りて入り、鎖やはしごを登って岩山の頂にある白山権現に参る、とある。

巨岩の割れ目にあるせり割り行状

余裕があればやってみたかったが今回はパスし、そのまま下っていく。しばらくザレ場と格闘し、ようやく45番岩屋寺に到着。
山を下ってきたので搦手(からめて)から寺に入ることになり、久々の読経は順番を間違えて大師堂から始めてしまった。読経後休憩して辺りを散策してみるが、この寺は崖にへばりつくように建てられていて境内に余裕がなく、かなり高いはしごの上にも行場がある。興味はあるが、高所恐怖症の身としては行きたくても行けない。

岩にへばりつく岩屋寺

ベンチに座って休憩するが、いきなりちょっと無理をしたせいか、心持ち足の裏が痛いような気がする。例のボルダースポーツを塗り込み、納経した後出発。

本来の参道を下っていくが、ここは駐車場からかなり高くまで登ることになるためか、車で来た人は皆息を切らせながら汗だくで登ってくる。本来の遍路はこうでなくてはと思いながらも、昼になったので腹が減ってきた。参道の終わりにいくつか店があったが食事になりそうなものはなく、よもぎ入りの回転焼きとやらを買い、歩きながら食べる。熱々で旨かったが、それだけではとても足りないので常備している行動食も食べて昼食を補う。

ここからは再び久万の町へ引き返すことになる。平坦な道と思っていたがやはり遍路道はアップダウンが続く。奇岩が続く古岩屋を抜けるとまたまた登っていき、八丁坂の分岐に到着。

ここから河合の集落を抜け、中峠入り口までは行きと同じ道。違うのはそのまま車道の峠御堂トンネルを抜けるのだが、歩道がなくわずか1mくらいの側溝の蓋の上を歩くしかない。600mもの間に何台も車が行き交い、特に大型車が来たときは壁にへばりつくなど生きた心地がしなかった。

トンネルをでて遍路道を下ると久万の町に入り、前回立ち寄った於久万大師を遠目に眺め、旧市街を抜けて国道33号線に合流する。今日はあと4キロくらい歩くと終了だが、いつものようにこの区間が一番辛い。道はまっすぐでどこまでも見渡せるし、景色は変わらず行けども行けどもゴールに着かない気がする。それでも遍路道で見かけた「一歩ずつ進んでいけばいつかはゴール」の言葉をかみしめながら歩いていく。

札に励まされる

16時を過ぎようやく遍路道に分かれてすぐに本日の宿のT庵に到着。この宿は私の古い遍路地図には載っていなくて、前回行程の途中で看板を見つけて記憶していたところである。元々遍路をやっていた人が、歩き遍路のためにと開業したところだそうで、髭のご主人と奥さんが親切に迎えてくれる。

部屋にテレビなどはないが、洗濯や風呂、食事などは非常に満足出来るもので、いろいろな情報もあってありがたい。同宿の人たちとも楽しく話したりした後、部屋に戻る。さすがに疲れたのと、明日は予報では雨で結構強く降るとのことなので、8時頃早々に寝てしまった。

本日の歩行は43,000歩、27キロの行程だった。