OSA日記

旅と食と健康とメンタルと

四国遍路 7_2

5月1日

2日目。

いかに疲れていたとはいえ、昨夜は8時なんかに寝たものだから、目が覚めてみるとまだ3時台だった。

まだ起きても仕方ないので布団の中でうだうだしていたが、窓の外から結構激しく雨の降る音が聞こえ夢うつつで憂鬱になっていた。何せ今日は6つも札所を打つことになるのだが、雨の中での読経や納経は大変だからだ。
いっそ雨に打たれながらでも歩き続けた方がよほど気楽なのだが。・・・と、つらつら考えているうちに良い時間になったので布団から出て準備を始める。ふと窓の外を見ると、何のことはない、雨はやんでいて、激しい雨音と思っていたのは近くを流れる川の音だった。空はどんよりしているが、雨は夜中に降ったらしい。

6時に朝食。とりあえず雨が降っていないのは幸先がよいことだと、同宿の人たちと話しながら食事。6時半過ぎには出発。雨は降っていないものの、空はどんより曇っている。

このT庵のご主人は、宿を開くにあたってこの辺り一帯の土地を買ったとのことで、裏に自ら開いた遍路道があるという。奥さんに見送られながら出発し、せっかくなので教えて貰った道を上がって行くが、のっけからかなりな急登で若干後悔した。
ほどなく国道に合流。その頃から雲は薄くなってきて、今日は雨は大丈夫そうだ。5月1日は全国的にまとまった雨、とずっと報じていたので覚悟していたが、まだまだ晴れ男の神通力は衰えていないと見える。

道はやがて三坂峠へ。ここから鍋割坂といういにしえの遍路道を下っていく。かなり歴史のある道で、江戸時代には松山から高知へのメイン街道だったとのこと。石畳の重厚なところが随所にある。久万高原は標高500mくらいなので、この坂は下り一辺倒である。

鍋割坂の石畳



下りは膝にダメージがくるのだが、昨日で身体も慣れたらしく、問題なく下っていく。途中松山方面の展望もすばらしく、山腹には変な形だったが虹まで出現し、雨どころかこんな風景を眺めることが出来る幸運に感謝する。

虹が出た!

下り切った所に、元遍路宿の坂本屋がある。由緒正しい遍路宿だったらしいが今は閉まっており、土日のみ開けて近所の人がお接待をしているとのことをT庵のご主人から聞いていた。今日は土曜日なので期待していたが、まだ早いらしく閉まっている。

ここからはまだ下るが、道は次第に平坦となり田園風景の中を進んでいく。途中に網掛石というのがあり、岩肌に本当に網の目の後のような模様が付いた岩があり、隙間に小銭が挟んである。

網掛石

10時過ぎ、46番浄瑠璃寺に到着。向かいに長珍屋という遍路宿があるが、実はここはかなり前に友人たちと泊まったことがある。日帰りのつもりで遊びに来ていて遅くなったので急遽泊まろうということになり、あちこち電話して空いていたのがここで、当時は遍路宿というものを知らずに宿泊。翌日の朝食の時間を聞かれ、8時というと愕然とされた記憶があるが、今となってはよく分かる。懐かしく思いながら、当時は目もかけなかった浄瑠璃寺に入っていく。

とてもこぢんまりした札所で、木々に囲まれて良い雰囲気である。GW中で松山郊外ということもあり混んでいるかと思ったがそんなことはなく、ゆっくりと読経、納経を済ませる。一息ついて札所を後にするが、次まではわずか1キロ弱。歩きだしてすぐに47番八坂寺に到着。こんなに近いのは初回の徳島以来で、逆に落ち着かない。ここも46番と同じような規模で、判を押すように読経を繰り返す。

ここもすぐに出発。町中を歩いていくが、48番までの間に別格番外の文殊院があるので立ち寄る。この文殊院は遍路の元祖ともいうべき河野衛門三郎ゆかりの寺で、菩提寺でもある。もともと衛門三郎の屋敷だったとのことだ。

衛門三郎菩提所

ここで衛門三郎について少々。衛門三郎はここの豪農だったが、欲深く民の人望も薄い人物だった由。ある時門前にみずぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢しようとしたが、三郎は家人に命じて追い返した。この僧は翌日からも毎日現れるようになり、その度に追い返すことを繰り返すが、8日目、三郎は怒って僧の持っていた鉢を竹箒でたたき落とす。

鉢は8つに割れてしまい、僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師で、この年から8人いた三郎の子どもが毎年一人ずつ亡くなり、8年後には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気づき後悔する。

懺悔の気持ちから家屋敷を売払い家人とも分かれて一人で大師の後を追いかけるも、いつまで経っても会うことが出来ない。四国を20回まわったところで今度は逆に回ることにしたが、その途中阿波国焼山寺近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい、と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎再来」と書いて、左の手に握らせた。

翌年、伊予国の領主河野息利に長男が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。領主は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。

よく考えたら、托鉢に来たことを追い返されただけで子どもを全員亡くした上、自分も亡くなってしまうというのもどうかと思うが、衛門三郎が歩いて四国を回った元祖として名が残っているのは興味深い。大師が今も四国を回っておられ、一心に四国巡りをするうち、何れ何処かで大師に巡り会えるという信仰にもつながっているらしい。三郎が閏年の申年に逆打ちをして大師に巡り会えたので、閏年に逆打ちを行うと3倍のご利益があるという考えもあるとか。3倍の根拠がよく分からないが、何か旅行会社が考えそうなことではある。

文殊院は簡単に参拝し、早々に出発。そろそろ松山市街にも近づいてきたので食事出来るところはと探してみたが、例によって良いところが見つからず、仕方なくコンビニに寄って食料を補給。重信川を渡り高速の下をくぐって48番西林寺に到着。

昼時なので納経を済ませた後ベンチでおにぎりを食べていると、車で来た観光客らしきおっさんに「スタンプはないですか?」と聞かれた。意味が分からず「納経のことですか?」と聞き返したがそれも通じず、どうも88カ所のスタンプラリーでもあるように思っていたのだろうか。それにしてもなぜ途中の48番で聞かれたかはよく分からない。

ゆっくり休憩してから出発。この辺りから次第に市街地に入っていき、景色がつまらなくなる。民家の間を抜けたり伊予鉄道の線路を渡ったりしながら歩いていき、13時頃町中にある49番浄土寺に到着。本日すでに4つめの札所だが、どこもわりと空いているし団体もいないので助かる。ただ、短期間にたくさん回ると各札所の印象が残らない。

この辺りから交通量も増えるが、道に歩道もなく歩きにくいことおびただしい。中には白線すらないところがあり、車が来るとわざわざよけたりしないといけないので神経を使う。

町中の遍路道

まもなく2つの池に挟まれた50番繁多寺に到着。それにしてもだんだん読経するのがしんどくなってきた。今日だけで12回読経しなくてはいけないのだ。頻繁に休めるので身体は楽だが、やはり遍路は歩いている道中が良い。ここは境内が広々していて、ベンチも多くある。休憩しようとベンチに行くと、T庵で同宿の年配女性二人連れとばったり出会う。この人たちは今日帰らなければならないらしいが、今日は天気も良くなって良かったとしみじみ話す。

次は本日6つめの札所。今日はこれで終わりなので少々がんばって歩き、住宅街を抜け、へんろ橋という橋で石手川を渡ると51番石手寺に到着。先ほどの衛門三郎ゆかりの寺で人気があるらしく、ここだけは人でごった返している。入り口から山門まで屋根付きの回廊のようになっていて、左右には縁日のようにいろいろな店がある。山門をくぐって境内に。国宝の仁王門や三重塔などが良い雰囲気である。

納経を済ませ、回廊の出口にある店でじゃこカツを食べ、50番で会ったご婦人にお別れをし、松山の町中に入っていく。

道後へ下っていく

今日の宿は道後にとってある。道は次第に観光客でごった返していき、やがて道後温泉本館の裏に出た。今日も本館は長蛇の列だがそれを横目に見ながら通過し、アーケードを抜けた先にある「ビジネスホテルS」に投宿。さすがに大都市の真ん中なので、ひなびた遍路宿などなく、ビジネスホテルに予約していたのである。

部屋で一息つきコインランドリーで洗濯したあと、近くの椿の湯に入りに行く。やはり広々とした温泉は最高だ。ついでに夕食もと考えたがこの辺りは観光客向けのところしかないので、雰囲気だけ味わったあとコンビニで明日の朝食をともに仕入れ、部屋でわびしく食する。

本日の歩行は41,500歩、26.5キロの行程であった。これだけ回ると距離もそこそこになるものだ。