OSA日記

旅と食と健康とメンタルと

青春18切符

高校生の時に青春18切符が発売された。

ご存知の通り、普通列車に限って定額で乗り放題になる切符で、当時は6日間有効だった。今と違って1枚ずつの綴りになっていて、最後の1枚は2日間有効になっていたと思う。

まるで自分のために作られたような切符だと思い、これで行動の範囲が飛躍的に広がるのと感じたのを覚えている。なにはともあれ、夏休みに旅をすることにしてお金を貯めていた。

6日間でどこまで行けるか調べてみたが、何とか北海道まで行きたいと思い予定を組んでみた。若かったので朝から最終まで乗りまくるスケジュールをたてた結果、1日目は栃木県の黒磯駅まで行けることが判明。しかしいかに若いとはいえ、始発から最終まで連日乗りつづけることのしんどさは想像できなかった。

自宅から始発で出発。数10年前のことなので詳細は覚えていないが、浜松駅で鰻弁当を買って、鰻はもとより静岡のお茶(当時は樹脂の容器に入っていて、揉んでお茶を出す方式だった)の美味さに感激したことや、熱海から乗った電車では当然ながらみんな関東弁で話していて新鮮だったこと、夜遅くについた宇都宮駅の明かりなどを断片的に覚えている。

日が変わる直前に黒磯に到着。宿に泊まるお金がないので、駅のベンチで寝ることにしていたが、いざ横になったら眠れたものではない。待合室には酔っ払いなんかもいたのでホームで寝ていたが、黒磯駅は機関車を付け替える駅で、夜中じゅう列車が行き交っていて、とうとう朝まで熟睡できなかった。

翌日は青森まで行くことになり、レトロな茶色の客車に乗ったのだが、かなりの行程を居眠りで過ごしてしまい、大変もったいないことをしたと思う。それでも仙台や盛岡など初めての駅はどこも新鮮だった。

青森で引き返すつもりだったが、当時就航していた青函連絡船はこの切符で乗れたので、夜行で眠れるしシャワーもあることと、北海道の地を踏みたいという衝動にかられて、発作的に乗船して函館まで行くことにした。

函館に近づくにつれ、せっかくここまで来たからにはもう少し北海道を旅したいという欲望が出てきた。ただ、北海道は広く鈍行で行くには限界がある。ここは乗車券まで購入してでも特急に乗ろうと決め、札幌まで行くことにした。まさに若気の至りである。

当時長万部からそのまま函館線小樽経由で行く「北海」という特急があり、それに乗ることにした。黒松内とか倶知安とか、北海道らしい地名や風景に感動したのを覚えている。到着した札幌はまだ地平にあってボロい作りだったような気がする。

ここで帰ればよかったのだが、欲望は恐ろしいもので、ここまで来たら最北端まで行こうという発想になり、稚内行きの夜行急行「利尻」の寝台車の切符をとってしまった。当時の寝台で一番過酷な三段式B寝台の最上段で、幅は52センチしかなく、独房よりもひどい狭さだったが、初めての寝台車という経験の前ではたいしたことはなかった。

ということで、気がついたら稚内駅に立っていて、宗谷岬までバスに乗り日本最北端御地を踏むことができた。感激はしたものの、当然ながらお金がなくなってしまい、「日本最北端の電話」から家に電話をかけ、お金を借りることにして郵便局に振り込んでもらった。

帰りは廃止になって久しい天北線でに乗り、クッチャロ湖を眺めていたのを覚えているが、そこから青森までどうやって帰ったのかよく覚えていない。とにかく北海道、それも日本最北端の地まで行けたので感激ひとしお、そのあとは消化試合だったかも知れない。

青森からは奥羽本線経由で移動。ボックス席で乗り合わせた家族の津軽弁が全く理解できなかったことや、特急の通過待ちで止まった駅では全く物音がしなかったことなど、断片的な記憶しかない。当時の客車は走行中でもドアを開けることができたり、最後端の車両は扉がなく鎖で仕切ってあったりしていて、おおらかな時代だった。

今のようにスマホなどあれば写真を撮りまくっていただろうに。

その後は東京まで戻り、信越線と北陸線経由で大阪まで帰った様に思う。詳細は覚えていないが、初の大旅行で心ゆくまでいろいろなところに行けたことは、人生に大きな影響を与えたと思う。

その後も18切符での旅は定番となった。