OSA日記

旅と食と健康とメンタルと

夜行列車

「夜行列車」という言葉には、特別な響きがある。

今ではほとんど見なくなってしまったが、昔は百花繚乱、あらゆる行き先に夜行列車が設定されていた。

鉄道に興味を持った子供の頃は強烈に憧れたもので、乗ることができないのならせめて見たいと思い、大阪で電車に乗り遅れてしまったのは以前に書いた通り。

初めて夜行列車に乗ったのは、大分発新大阪行きの急行「くにさき」。夜行と言っても一夜明けた朝に、地元から大阪に行くのにちょっと乗っただけだが、それでも十分に夜行列車の雰囲気を味わうことができて興奮したものだ。

ちなみに、「くにさき」は夜行列車と言っても寝台ではなく、座席客車の14系という列車だった。熊本からの「阿蘇」を併結して、長大な編成だった。

初めて寝台列車に乗ったのは、青春18切符で北海道に行った時に、調子に乗って札幌から稚内まで行った急行「利尻」。B寝台は3段式で、高さはもとより幅が52センチしかなく、独房より酷い環境だったが、初めての寝台列車に感激したのは今でもよく覚えている。

この頃は全国に夜行列車が走っており、東京からは「さくら」「はやぶさ」など九州へ向かう列車が憧れの的だった。大阪からも「明星〔後の「なは」)」「彗星」などが数多く運行されていて、鉄道雑誌を食い入るように読んだりしたものだ。

当時は、今では絶滅してしまった急行の夜行も数多く走っており、普通列車に寝台車両を連結した夜行まであった(このころは「鈍行列車」と言っていた)。18切符の旅の時に、出雲市始発大阪行きの「山陰」という夜行に乗ったことがあるが、たいした乗車率でも無いのに、一人ずつひとつのボックス席をななめに占領しているので、席を探すのに苦労した。

夜行普通は、他にも北海道の「からまつ」、紀勢線の「南紀(後に「はやたま」)、九州の「ながさき」などがあった。これらを知っている人はかなりのマニアだと思う。

大学は九州に行っていたので、一度帰省の時にお金を貯めて夜行列車で帰ったことがある。長崎発の「あかつき」で、乗車駅の小倉駅は深夜1時くらいの出発だった。駅前のマクドナルドで時間をつぶしていると、まだ自分がいるのに閉店して店のシャッターが閉まってしまったのには驚いた(大声上げて出してもらったが)。

社会人になってからはいくつか乗ったが、印象的だったのは東京から大垣に向かう通称「大垣夜行」。当時は列車に名称もなく(後に「ムーンライトながら」)、列車は153系という急行型車両だったが、背もたれが垂直のボックス席で、今から考えればよくあれで眠れたなと思ったが、満員の車内でも眠ることができたのは若かったからだろう。

最後に乗ったのは、大阪から東京に走っていた夜行急行「銀河」。東京に早朝に着く便利な列車だったからか、ビジネスマンに人気でかなり長いこと運行していた。

会社の先輩と東京に遊びに行くことになり、この「銀河」の切符を買ってきてもらったのだが、妙に金額がはっていたのでよく見るとA寝台だった。なんでA寝台なんか買ったのか聞いたら、世間知らずのこの先輩は寝台にAやらBやらあること自体知らなかった。せっかくなのでA寝台を堪能したが、流石に寝台幅も広く快適だったのは言うまでもない。

あれから年月が経ち、次々と夜行列車は廃止となり、「富士」も「ゆうづる」も「日本海」も「あけぼの」も、20系も14系も24系もみんななくなってしまった。定期列車で残っているのは、東京発の「サンライズ出雲・瀬戸」のわずか1種のみ。なんとも寂しい状況になってしまった。

豪華列車の「ななつ星」や「瑞風」などが誕生したがあれは自分には邪道で、やはり蚕棚のような寝台にゴトゴト揺られるのがいいと思う(高すぎて乗れないというのもあるが)。

夜行列車というのは不思議なもので、ガタゴトと走っているときはよく眠れるが、駅に着いて静かになると目が覚める。誰もいない深夜の駅のホームや駅名標を見たりするのは非日常的な感覚だった。あの感覚を味わうことができないのは寂しいことだ。

四国遍路 6_3

5月1日

3日目。
今日も6時起床、6時30分朝食。朝食も別館で、同宿の人たちと談笑しながら食べる。7時過ぎに宿を出発。女将さんが握手して見送ってくれる。いつもながらの暖かさは遍路宿ならではだ。

岩松の町中を歩いて行き、川を渡って国道へ。相変わらず朝から交通量が多いが、しばらく行くと松尾トンネルがある。そのままトンネルを抜けてもいいのだが、遍路道は忠実に山を越えていくので、当然そちらに歩を進める。

岩松の饅頭屋

遍路道は最高地点でも220mなのでなめてかかっていたが、なかなかどうして、いっかな峠に着かない。いつもそうだが、我ながら「見積もりの甘さ」を痛感する。たかが○○m、と思って何度痛い目に遭っただろう・・・

とは言いながら、遅い歩みでも進んでいるとゴールは近づくわけで、休憩所のある峠に到着。立派な遍路小屋があり、ここのベンチは車の座席をそのまま置いていて座り心地が良さそうだったが、まだ歩きだしてすぐなので横目に見ながら通過。

車のシートを使ったへんろ小屋

下りも結構長く時間をかけて麓まで降りていくと、いきなり採石場のど真ん中に出た。今までにも遍路道は植物園や焼却場、高速道路の工事現場など様々な所を突っ切ってきたが、やはり歴史が古いためかこちらの方が優遇されているようだ。もっとも今日は休日のためか人っ子一人いなかった。

もう一度遍路道を通った後、ふたたび国道に出る。このあたりからは宇和島の圏内で、高速道路の入り口を過ぎると宇和島の市街地に入っていく。国道を歩いていると妙に疲れてしまい休憩したいが、峠の休憩所以来休めるところがない。腰を下ろせるところでも・・・と思いながら歩いていくが、それに気を取られていて道を誤ってしまった。川沿いに進むはずが川に直交してしまい、進む方向を90度間違っていることに唖然とする。

疲れもあっていらいらしてきたが、ふと、すれ違いざまに一人のおばあさんが私の方に手を合わせて拝んでくれるのを見てはっとする。町中では挨拶する人も少ないが、こんな信心深い人もいるものだ。

気持ちを切り替え、あまり使いたくはないが携帯電話のナビを使って現在位置を把握し、ようやく目印の勧進橋まで復帰、その先の道沿いにある桜町児童遊園という公園に入り、藤棚下のベンチで休憩。公園にいた近所のおじさんと世間話したあと出発。

藤のきれいな公園

丘の上に宇和島城が望め、丘を回り込んで宇和島市街を歩いていくと、別格第6番の龍光院に到着。せっかく通り道にあるので、長い石段を登って寄っていくことにする。参拝した後境内でのんびりするが、高台にあるだけに展望がよく、宇和島の市街や城がよく見える。

別格龍光院への階段

道に戻りJR宇和島駅を眺めながら線路を渡りひたすら進む。今回のコースで一番大きな町なので、何か昼飯にありつけるかと思ったが、遍路道沿いには何もないまま市街地を通り過ぎようとしている。少し脇に入れば何なとあるのだろうが、遍路道に忠実に進むと得てしてこういうことになる。仕方なく目にとまったスーパーに入り海苔巻きや総菜を購入。休むところもないのでしばらく歩いてJR北宇和島駅を目指す。

駅舎があればベンチもあるもので、ようやく腰を下ろすことができる。海苔巻きと総菜を食べゆっくり休憩するが、先ほどからどうも足の裏に違和感がある。靴下を脱いでみると両足裏の親指の付け根が赤くなっている。これはマメの前兆で、あまりよろしくない状態だ。

ここまでマメには縁がなかったが、靴を新調してからこういう風になりやすくなったような気がする。同じモントレイルの靴で、前回の「Continental Divide」が製造中止になり、仕方なく「Wildwood」というモデルにしたのだが、こちらは今ひとつ足に合わないようだ。ボルダースポーツという足に塗るクリームでケアをして出発したが、一歩ごとに圧力を感じてあまりよろしくない。

道はここからもアスファルトが続くが、地図の標高表記を見るとだらだらとした上り坂のようだ。午後の日差しが強い中ダラダラ上るアスファルト道を歩くというのは最悪のシチュエーションで、きついのを覚悟し県道57号線を歩いていく。ところが不思議なもので、覚悟してしまうとそれほどきつく感じることもなく歩いていける。

なんとなく調子よく歩いていると、折りたたみ自転車に荷物を満載したおばさんの遍路がゆっくりと追い抜いていった。この坂を自転車では大変だなと思ったが、この姿に記憶がある。

やがて到着した遍路小屋にくだんのおばさんが休憩していたので、こちらも腰を下ろしながら挨拶。話をしているとやっぱり高知の清滝寺あたりで会った人だということが判明、なんという偶然だろうか。程なく前回お会いすることがなかったご主人も到着、ご主人が歩いて奥さんが自転車で回られているのは前回同様で、今までの苦労話などを聞く。

遍路が集うへんろ小屋

挨拶をして先に出発し、やがて道は三間(みま)へと入っていく。広々とした田園地帯の中一直線に田んぼを突っ切る道を歩いていくと、自転車の小さな子供が元気よく挨拶してくれ、車で追い越しざまに中学生くらいの女の子たちが「がんばってー」と声をかけてくれる。すっかり足取りも軽くなり、14:30、41番龍光寺に到着。

この寺はなぜか山門のかわりに石の鳥居がある。これは明治時代の神仏分離政策以前の形態を今に残しているとのことで、寺の中に赤い鳥居の稲荷神社もある。納経後ゆっくりするが、道ではばらけている遍路も札所では一緒になり、顔見知りも多い。

寺なのに鳥居

15時に出発。ここからは歩き遍路道が近道だったのだが入りそこね、仕方なく車道を歩く。1キロ長くなるしせっかくの遍路道を、とがっかりしたが仕方がない。次の札所までは約3キロ、40分ほどで42番仏木寺に到着した。

1日に2つ打てるなんて何日ぶりだろう。考えてみると36番の青龍寺を出て以来である。41番でも会ったM旅館で同じだった夫婦と境内ですれ違い、あちらはさらにもうひとつの峠を越すそうで大変だ。こちらはこの近くに宿をとっているので、納経を済ませたあと境内でゆっくりくつろぐ。

16時を過ぎて札所を出発。本日の宿のT屋は10分程度で到着してしまった。ここは田んぼの中の宿で、建物もきれいで気持ちが良い。風呂、洗濯、夕食のゴールデンコースを堪能するが、今日も何となく酒は控えようという気になった。

本日の歩行は53600歩、約30キロ。連日5万歩を越えていて足にくるわけだ。
足の裏は赤いままで、明日が心配だが・・・

四国遍路 6_2

4月30日

2日目。

6時起床、6時30分朝食。遍路宿ではいつものパターンである。準備をして7時過ぎに出発。

御荘の町を出てしばらくは国道56号線沿いに歩く。昨日も今日も十分にストレッチしたのだが、歩き始めはやはり節々が痛い。いつもの膝や股関節は今のところ何ともなく、家では毎日腹筋やストレッチをしてきたが、今年になってからスクワットもメニューに加えることにしたので、良い効果が出ているのかもしれない。ただ、昨日後半から右足の甲から足首にかけて痛む。これの痛みは初めてのもので、湿布してきたがどうなることやら。

道は平日ということもあってか交通量が多いが、ふと車が途切れた時の静寂は、鳥の鳴き声も相まってなかなか良いものだ。すれ違う学生もほとんどの人が挨拶してくれる。道が低い峠を越すとやがて海が見えてきて、内海の町に入っていく。

今日のメインイベントは柏坂の上りだ。土佐はずっと海沿いであまりアップダウンがあまりなかったが、伊予に入ったとたん峠だらけで、昨日の松尾峠、今日の柏坂と、連日峠が続く。町を外れるとやがて遍路道に入り、急登となる。坂がきついのはいつものことだが、今日は身体が慣れているのか昨日よりはましな感じがする。

柏坂の開始点

案内に柏坂休憩所とあるのでそこまでがんばろうと思ったが、宿でもらった情報を見るとほぼ頂上直下にあるので気が萎えた。道々野口雨情の作った民謡詩が書かれた木柱があり、そこで息をつくことにする。「松の並木のあの柏坂 幾度涙で越えたやら」「山は遠いし柏原はひろし 水は流れる雲はやく」など、息を整えながら読むと味があるものだ。

野口雨情の民謡詩

30分くらいで休憩所に到着。ここが柏坂休憩所かと思ったが、隣に石仏がまつられている。ここは柳水大師といって、弘法大師が地面を杖で突くと水が湧いてきたという、よくあるような逸話の場所だ。柳水なんとかというのもあちこちにあったように思う。いずれにしてもきれいな水が湧いているのでここで休憩し、甘いものを食べたり顔を洗ったりしてすっきりする。

柳水大師

ここからもさらに上りが続く。がんばって上っていき汗だくになってきた頃ようやく平坦な道になった。腕時計の高度計を見るとほぼ頂上の470m。ぼーっと歩いていると清水大師の案内があり、柏坂展望台はいつの間にか行きすぎてしまったようだ。

やがて道は下りに転じ、しばらく行くといきなり展望が開ける。「つわな展望台」で、由良半島が幾重にも入り江を重ねて沖へと張り出した光景はなかなかのものだ。ただ、黄砂のせいか霞んでしまっていたのが少々残念。

つわな展望台

その後もずっと下っていき、12時頃に茶堂休憩所に到着。ベンチに座って宿で作ってもらったおにぎりを食べる。コンビニのものと違い大きくて旨かった。近くの茶堂大師を拝み、少し行くとミカン畑でおばさんにミカンをお接待でいただく。後でいただいたがとても甘かった。

山中の茶堂休憩所

遍路道を下ると里山に入る。遍路では見慣れた風景だが、そこら辺の観光地よりはよほど心にしみる光景で、しみじみと目に焼き付けながら歩いていく。道ばたを流れる川はきれいで、大きな鯉も泳いでいる。

やがて国道を渡り川沿いに進んでいくと、対岸に遍路小屋がある。休憩にいくと松尾峠で出会った外人遍路がいたので、2つもらったミカンの一つを差し出すと、この方もいただいたとこのこと。この外人遍路とはその後も結構出会ったが、あまり話をすることはなかった。その後は芳原川に沿って延々と歩く。川沿いに延々と歩くのは昨日と同じだが、国道を延々と歩くよりは気分的にいい。

岩松の町

時間が早かったのでゆっくり歩いたが、15時には岩松の町に着いてしまった。今日の宿はここ岩松のM旅館。唐破風作りで味のある入り口を写真で撮ろうと思ったら、女将さんがいきなり出てきたのでそのまま入ることに。

早い時間だったが風呂は準備できているとのことで、一番風呂で極楽を味わう。気になっていた足首も、歩いていると痛くなくなってきて何より。

風呂から上がって食事までの時間、部屋でごろごろするのは至福のひと時だ。食事は別館に用意されていて、伊勢エビや岩松名物のウナギなどかつてないほど豪華だった。同宿の人も楽しい人たちで、車と歩きの違いはあったが食事が終わってもずっと話し込んでいた。

21時30分、糸が切れたように眠りにつく。

本日は51600歩。距離は短くて25キロだったのだが・・・

四国遍路 6_1

某年4月28日~29日

1日目

夜行バスのチケットは1ヶ月前からの予約となる。今年も3月頃から計画を練りはじめ、休日取得も含めて日程や行程を組み始めた結果、4月28日の夜に出発、5月5日の朝に帰宅ということになった。

バスも宿も順調に予約できていったのだが、帰りのバス予約だけは一悶着。1ヶ月以上前にも関わらずネットで「満席」になっていたのだ。慌てて名鉄バス予約センターに問い合わせたところ、往復で買う人の「復路」が予約できるのでそれで満席になったとのこと。それでは片道だけの人間はどうすれば良いのかと聞くが、「申し訳ありません」としか言わない。謝られても仕方ないので何とかならないのかと聞いたが、こちらではどうもできず、共同運行している伊予鉄道に聞いてくれとのこと。

なんでこちらがダメであちらが良いのか分からないが、ともかく埒があかないので早速伊予鉄道に聞いてみると、確かに復路分で予約は入っているが片道の人のために席は確保してあるので1ヶ月前に予約して欲しいとのことで、後日なんとか席を確保することができた。

4月28日は例によって仕事が終わってから夜の出発となるが、今回の「しまんとブルーライナー」は大阪から乗車することにしたので若干時間に余裕がある。ゆっくり風呂に入り荷物等を確認したあと家を出発。地下鉄で名古屋駅、新幹線で大阪へと前回と同じ行程。時刻が遅いせいかどちらの列車もすいていて、京都発にしなくて正解だった。

22:55定刻に「しまんとブルーライナー」は東梅田を出発。前回と違って早く予約したため1号車をとることができ、3列シートである(前回は増便の3号車で4列シートだった)。いつものようにそれなりに熟睡し、翌朝は若干早着の7時過ぎに三原分岐に到着。三原分岐は前回打ち終えた土佐くろしお鉄道平田駅の最寄りバス停で、大阪からダイレクトにここまで来ることができ非常に便利だ。

すぐ横のコンビニで買い出しした後平田駅まで歩いて行き、前回も利用した広いトイレで準備。待合室のベンチで朝食替わりにおにぎりをほおばっていると、早速お遍路姿の人が入ってきた。挨拶をして話しをすると、遍路は今回3回目で、もう歳も歳だから列車やバスで行けるところは利用するつもりとのこと。歳を聞くとなんと80歳で、とてもそう見えない人だった。

白衣をはおり菅笠をかぶり、8時出発。今日は雲一つない快晴だ。

しばらく集落の中を歩くと程なく広々とした田園地帯を行く。真っ青な空と緑の田園地帯の間を一直線に進んでいく鉄道の高架が良いアクセントになっている。しばらくして国道56号線に出ると、前回終了した39番延光寺へと通じる分岐点を通過、ここから新たな行程となる。

青空と鉄道高架

相変わらず交通量の多い国道を宿毛市街に向けて歩く。夜行で着いたばかりで身体が本調子ではないので、準備運動を兼ねてゆっくり歩いていき、1時間ほどで橋を渡って宿毛市街に入る。味のある市街を抜けさらに1時間くらい歩いたところの宿毛貝塚公園で休憩。

宿毛のまんじゅう屋

舗装路はここまでで、ここから遍路みちに入っていく。木陰を歩くのは気持ちいいが、しばらく雨が多かったせいか道がぬかるんでいて少々歩きづらい。このまま峠に上がって行くのかと思ったがしばらくあまり勾配がない道が続き、時々集落に出てはまた山道に入るのを繰り返す。

やがてある集落から上がって行く道に入り、松尾峠への本格的な登りになる。松尾峠は高知と愛媛の県境の峠で、標高は300mとあまりたいしたことはない・・・と思っていたが、いつもの如く予想以上にきつい道が続く。道も荒れていて歩きにくく、まだ身体も慣れていないのか息が上がってくる。

松尾峠へ

12時頃ようやく峠に到着。ここには松尾大師跡と、土佐と伊予の国境の碑があり、とうとうここから菩提の道場伊予の国に入る。これまでの長かった道のりを振り返り、これからまだまだある道のりに思いをはせながらしばし休憩。

ここから伊予の国

といってもこの峠は展望もないので、せっかくだから350mばかり寄り道をしたいと思う。歩き遍路をしていると1mたりとも寄り道などしたくないものだが、この先に純友(すみとも)城跡という展望のよいところがあるとのことで、もう少しがんばって登って行く。

やがて到着した純友城跡には展望台があり、宿毛の町や入り組んだ海岸線などの展望がすばらしい。純友城というのは、平安時代に乱を起こした藤原純友の城があったところらしい。

純友城からの景色

風景を堪能したあと松尾峠まで戻り、東屋でしばし休憩。先客で外人の遍路がいたが、すぐに出発してしまった。ここからはだらだらとした下り坂が続く。上りと違って手すりがあったりして道は整備されていて歩きやすい。しばらく歩くと車道に出るが、そのままさらに進んでいく。

やがて一本松の町に入っていくが、この辺りには当然の様に食べるところがない。今回も昼食には縁がないかと思いながらも、国道を渡るときに遠くにコンビニを発見。遠回りしてコンビニに行くが、昼下がりで食べ物はほとんど売り切れており、コールスローサンドとじゃこカツという訳の分からない取り合わせを購入。休憩するところもないので歩きながら食べるが、さすが愛媛のじゃこカツは旨かった。

道はこのまま平坦かと思ったが、随所に上り下りがある。途中のヘアピンでは、地図では車道に沿って行くコースが示されているが、遍路道の案内は急な下り道を示していた。せっかくなので案内に従って進む。

道はかなりな急坂だったがそれだけ早く下ることができ、あっという間に元の車道に。しばらくしてさらに案内があったのでそちらに進むと今度は急な上りだ。遍路道はつづら折れの道をまっすぐ進むのでアップダウンが激しい。息を切らせて上って行くと、ようやく平坦な道に出る。

やがて道は僧都川の土手道となり、太陽の反射できらきらする水面を眺めながら気持ちよく歩く。ここまで来たら終点も近い、と思っていたので最初は足取りも軽かったが、いつまでたっても町に入らないといういつものパターンだった。だんだん疲れて脚が痛くなってきた頃にようやく橋を渡って御荘の町に入る。

僧都川沿いの道

16時を過ぎて40番観自在寺に到着。ここは1番札所から一番遠いので、「四国霊場の裏関所」と呼ばれているそうな。

 

今日のエネルギーをすべて使い果たしたような感じでベンチにへたり込む。しばらく魂が抜けたような状態で休憩してからいつもの手順で参拝し、納経する。清々しい気持ちで札所を堪能した後は宿に入るだけだ。

裏関所と呼ばれる40番観自在寺

本日の宿であるY旅館は門を出てすぐの所にある。相変わらず遍路宿は親切で、洗濯はお接待でやっていただけるとのこと。食事も海のものが中心で美味だったが、今回はビールを控えようと思う。

本日の歩行は52100歩!約29キロの道のりだったが、峠があると歩数も増えるようだ。
21時、早々に就寝。

近隣旅の面白さ

遠くに行くことだけが旅ではない、というのは、私の好きな鉄道紀行作家である宮脇俊三氏の言葉。

旅というのは日常から外れた体験をすることであって、近くでも生活圏内でも、いくらでも対象はあると自分も思う。極端に言うと、いつも通っている道を外れて知らない道を歩くことでも、ある意味旅になるのではないだろうか。

例えば住んでいる県内の地図を改めて見てみると、かなりいろいろなところには行ったつもりだが、それでもいくらでも行ったことがないところもある。名所でなくても地形が面白そうとか、マイナーな神社があるとか、ネタは豊富にあるものだ。

かつて神戸で働いていて、神戸はたいがい行ったと思っていたが、やはり地図を眺めていてちょっとしたコースを思いついたので、早速行ってみることにした。こういうのは突発的に行けるので、天気や気候が良いときを見計らって行くことができる利点がある。

阪急電車から神戸高速鉄道に入って、高速長田で下車。最初の目的地は長田神社で、そこそこ有名だと思うが改めて考えると行ったことがない。近くにあって当たり前過ぎて、却って行ったことがないというのは結構よくあるパターン。

地上に出ると見覚えのある鳥居が建っていて、そこから参道まで商店街のようになっている。昔ながらの和菓子屋や喫茶店などが軒を連ねていて、良い雰囲気である。和菓子屋に寄って柏餅などを買う。

ほどなく参道に入り、長田神社に到着。鳥居をくぐると楠があり、見惚れるくらい立派な枝振り。人気のない境内を歩いてお参りし、裏手の楠宮稲荷にも参る。御朱印をいただいてから境内を出る。

立派なクスノキ

道を少し戻り、パン屋をのぞいたあと、新湊川に沿って歩く。川沿いは遊歩道になっている。川沿いは川に沿っているためアップダウンがなく、歩くには最適。

やがて、次の目的地の湊川隧道が見えてくる。湊川隧道は何度も大きな水害を起こす湊川の流路を変更するために、会下山を貫通するトンネルを掘ったもので、この出口に「天長地久」という扁額が掲げられている。
定期的に中を歩ける催事があるようで、機会があれば通ってみたい。

湊川隧道

扁額の横を上がると会下山公園。山なのでどんどん上っていくと、木には覆われているが若干景色のいいところがある。しばらく景色を眺めたあと、ベンチで買ってきた柏餅やパンを食べる。

会下山公園

公園を下っていくと、善光寺という寺があり、ここに平業盛之塚というのがある。このあたりは源平の一ノ谷合戦のあったところで、名だたる平氏の武将が討ち取られている。業盛もその一人で、平清盛の弟である教盛の三男。兄の通盛と教経も討たれ、兄弟全滅してしまっている。

このあたりは足利尊氏楠木正成が激突した湊川合戦もあり、歴史の匂いがするところである。

街を下って行くと湊川に行き着き、ここには東山商店街がある。私は商店街が大好きで、中でもこの東山商店街は大のお気に入り。
商店街の雰囲気を存分に味わい買い物などするが、魚など生ものはなかなか買えないので残念。

東山商店街

商店街の終わりにある湊川公園では何やら催し物をやっていて、その雰囲気も好きなのでうろついてみる。

今日の目的地は以上だが、妻がIKEAに行きたいと言うので、三宮まで出てポートライナーに乗車。途中のポートターミナルに巨大な船が停泊していて、見るとかのダイヤモンドプリンセスだった。大きさに圧倒される。

ポートターミナルのダイヤモンド・プリンセス

IKEAでお茶と買い物をして帰るが、充実した1日だった。ちなみに今日の歩数は27000歩を超えている。

このような旅は楽しさの割にコストがあまりかからず、非常に満足度が高い。県内にはいくつも行ってみたいところがピックアップされているので、引き続き行ってみようと思う。

田植え

毎年行っているボランティア先は北部の方だが、田植え時期は若干早く、毎年ゴールデンウイーク明けに行う。

今年も手伝いに行ってきた。
手伝いといっても、田植え自体は機械で行うので、雑用的なことがほとんど。まず苗に粒状の肥料を振って、田植機に積み込む。

稲の苗

植機は地元の人が運転するのだが、何度か運転させていただいたことがある。まっすぐ走らせるには視点を遠くに置くことだが、なかなか難しい。植えていく経路も考えなければならない。

田植え機

田植機ではコーナーなどどうしても植えられないところがあるので、田植え靴を履いてゴム手袋をして水田に入り、手で植えていく。泥が深いところは苗が水面に出ないので、泥を掻き寄せたりして調整する。

田植え靴を履いていても、泥に足をとられ、ともすればバランスを崩しがちになるので、水田の中を歩くのはなかなか緊張する。

田植えの済んだ田んぼ

初めて田植えに来るときに田植え靴を用意するように言われ、その時は田植え靴がわからず、長靴ではダメなのかなと思ったけど、こんな泥の中では長靴はすぐに脱げてしまうので意味がない。田植え靴は近所のホームセンターでは売っていなかったのだが、こちらでは季節になると山積みしていたので、必需品なのだなと思った。

田植えが済んだ苗のトレイが溜まってくると、すぐ下の川に入って泥や根っこを落として洗う。

こういった作業を繰り返し、昼頃にはすべてのたんぼが終了。泥だらけになった田植機を水道で洗い、この日の作業は終了。

この日は雨の予報だったが午前中は降られずに済み、作業が終わって昼食を取り出したとたんに降ってきたのでラッキーだった。昼食を食べながらみんなで談笑するのは楽しみの一つ。

このあとは定期的な草刈りをし、秋には稲刈りの手伝いに来ることになる。黄金色に稲が育つのが楽しみだが、新米をいただくのはもっと楽しみ。

四国遍路 5_5

最終日。

前回同様食事は6:00なので、5:30に起床する。予報では今日こそ雨が降りそうな感じだったが、今のところ良い天気だ。

下ノ加江から39番延光寺までは2つコースがあり、距離が近い方で言えば先日の真念庵から狼内集落を通る道になる。当初そのつもりだったが、宿の主人が言うには手前の県道21号線を行く方がアップダウンはなく、結果的には早いとのこと。地元の情報は尊重すべきだし、真念庵経由だと打戻りが長いので、ご主人の言に従うことにする。
6:40出発。

今日はかなり先まで自動販売機すらないとのことなのでコンビニで水を購入し、しばらく国道をさかのぼった後、川を渡って田んぼの中の道に入る。山から眩しい朝日が昇ってきて、天気予報とは裏腹に快晴である。

道はそのまま川に沿って山道に入っていくが、地図で見ると道は川の蛇行にあわせて激しく曲がりくねっている。なるほどこれを伸ばせば結構な距離になるに違いない。県道とはいえ車1台通るのがやっとの広さで交通量は皆無に等しく歩きやすいのだが、行けども行けども同じ景色。今回の遍路はこのようなパターンが多く、歩いていて精神的に疲れてしまう。

道端にはよく栗が落ちている

相当歩いたように感じてようやく土佐清水市から三原村に入るが、ここまで5キロくらいしか進んでいない。地図にある遍路小屋までは同じくらいの距離を歩いてやっとたどり着く。竹で出来た遍路小屋で休憩した後は下長谷の集落までやはり何の変化もなく、ここでようやく雑貨屋の前に自動販売機を発見し、冷たい水を購入。

もう少し行ったところにある天満宮でベンチがあったので大休止を取ることにする。なぜか馬が2匹しかいない壊れたメリーゴーランドが放置してあり、オブジェとして見たらなかなかいい味を出している。

壊れたメリーゴーランド

見たところ三原村の中心に近いはずだが、あたりは田んぼしかなくのどかなものだ。宮ノ川トンネルを抜けてもわずかな集落で、程なく村を抜けてしまうことになる。こんなところにも瀟洒な団地があり、そこを過ぎると遍路小屋がある。ここでも竹だけで作った質素な小屋で休憩すると、ひたすら県道21号に沿って下っていく。

竹でできた遍路小屋

宿毛市に入りダムサイトを通り過ぎるとだらだらした下りが続く。歩道もなくなり午後の日差しもきつく景色も代わり映えしないのでひたすら歩くのみ。それでもふと空を見ると雲の形がカニみたいで面白かったりする。

カニみたいな雲

だいぶ下ったところに建物があり、その影でお遍路が休んでいたので見ると、昨日のパワフルなご夫婦であった。向こうも気づいたので近づくと、マメが酷くて歩くのが辛いとのこと。用意していたマメ用のジェル絆創膏を差し上げると、お返しにお菓子と饅頭をいただいたが、郷里兵庫県は赤穂の塩味饅頭だった。いろいろなお話をしてから分かれるとまもなく集落に入っていき、やがて土佐くろしお鉄道平田駅に到着。

今回はここから帰途につくことになるが、39番はまだ2キロばかり先にある。駅の待合室で小休止した後出発し、しばらく国道を歩くと道が分かれ、田んぼの中の道を歩いていく。

横を荷物満載したスクーターが追い抜いていったが、運転している遍路姿のとっぽい感じのお兄さんが手をあげて挨拶してくれたので、こちらも慌てて杖を振り上げて応える。

14:30、とうとう土佐最後の札所である39番延光寺に到着。長い長い土佐もようやく終わりをつげ感無量、といきたかったが、団体が大音響で般若心経を唱えていて何となく興ざめ。

39番延光寺

納経を済ませるとベンチでゆっくり休み、土佐を打ちえ終えた喜びを静かにかみ締める。やがて横のベンチに先ほどのとっぽいお兄さんがやって来たので少し話をする。名古屋に程近い三重からスクーターで来ていて、今日帰らなければならないそうな。スクーターといっても90ccくらいだから相当きついような気もするが、いろいろアウトドアをされているそうで、結構スポーツマンらしいので大丈夫だろう。

今日は帰らなければならないので、列車の時刻を見計らって札所を出ることにする。山門で一礼して元の道を戻るが、夕日を浴びて金色に光る稲穂の間をのんびり歩いていると、旅の終わりという感情も加わってか、風景がとても美しく見える。

そこへスクーターのお兄さんがやってきて追い抜きざまに手を振ってくれたので、こちらも大きく振り返す。しばらくすると川の対岸の道を例のパワフルなご夫婦がやってきたので、こちらにも大きく手を振る。「お疲れ様~」「やっとここまで来られました~」「お気をつけて~」などと大声で声をかわしながらすれ違う。ここでもみんな一期一会だ。旅の終わりもあいまってなんとも言えない寂しさがこみ上げる。

15:40平田駅到着。今回の遍路はここで終了。今日は48000歩におよび、距離はおよそ34キロ。
きれいなトイレで旅装を解き、笠と杖をビニールで包んで俗世へ戻る。

今日は高知から夜行バスだがまだ時間がある。どこかで風呂に入りたいと思い調べてみると、中村と高知にそれらしいところがある。迷った末、結局特急列車で高知まで戻り、駅に程近いところの銭湯を探し当てると、これがまた昔ながらの銭湯で、桶は「ケロリン」が描いてありドライヤーは1回20円というレトロなところだった。さっぱりした後は駅前の居酒屋で無事に済んだ遍路旅に一人祝杯をあげ、夜行バスで名古屋へ向かう。

熟睡した翌日はそのまま出勤である。もはや旅の余韻に浸る余裕もなかった。